こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

山形日記⑤ 笹野一刀彫と笹野観音

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 の続き。いよいよ米沢は笹野へとやってきた。山形に来た目的のひとつ、民芸品の笹野一刀彫はここで制作されている。

  

 

 

 ・笹野観光

 

 大きな「お鷹ポッポ」が建っている。笹野一刀彫の代表的な意匠だ。笹野一刀彫とは、木を削って簡単に着色した民芸品で、「お鷹ポッポ」のほかには恵比寿大黒、蘇民将来など縁起物の置物が作られている。米沢に限らず山形の代表的な土産物と言っていいだろう。今回の山形での旅行中もあちこちで見かけた。

 このお鷹ポッポのある角の右の細い道へ入っていくと「笹野民芸館」や「鷹山」、「笹野観音」がある。

 

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 山裾に広がる静かな農村風景の中を歩く。

 

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 7、8分ほどで笹野民芸館へ到着した。内部は薄暗い古民家風の作りで、ずらっと各種の一刀彫が並ぶ。 やさしそうな職人のお兄さんがいて、いろいろお話を伺った。

  

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 まず、笹野一刀彫の絵付けと彫りについて。これは例えば夫婦で分業していたケースもあった。彫りと絵付けをどちらもできる人は工人(こうじん)と呼ばれ、どちらかしかできないのを職人と言うらしい。

   お兄さんは絵付けすることを「染める」と言っていた。

 職人数は今は20人くらい。最盛期は特定の種類しか彫らない人も含めて100人くらい居たとのこと。これはおそらく農家と兼業の人もかなり含んでいる数字だろう。

 一刀彫は、笹野観音に木花(木で作った花)を供えたのがはじまりといわれる。オタカポッポのポッポもアイヌ語から来ているという話もあるらしく(ニポポか?)、このあたりではオタカポッポを「がんぐ」と呼ぶらしい。

 笹野一刀彫は今では30種類以上あり、全部彫れる人は数人だ。東北芸工大とコラボした時に、お兄さんのお師匠さんが昔のオタカポッポを再現した。今のオタカポッポは鷹ととまり木の割合が4対6だが、昔のは6対4になっているという。このような改良が重ねられて来て商品として洗練されて来たのだろう、と思った。

 

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 材料のコシアブラの木は山菜として美味しく、最近はなかなか採れない。エンジュも使っている。

 一刀彫には、蕎麦切り包丁みたいな特殊な刃物(サルキリ)を使う(ほかに「チヂレ」と呼ばれる刃物も使うらしい)。これは日本刀と同じ玉鋼で出来ている。お兄さんいわく、何度か怪我をしたことがあるが、よく切れる刃物で切った傷は治りも早い。一度怪我をすると、恐怖心を持ってしまったり、切った位置が悪くて刃物が握れなくなったりすることもある。なので、職人は少ないがあまり人に勧められないのだという。

 

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  (年賀切手にもなった蛇。見覚えがある。)

 

  職人はみな商売気がなく、よく安すぎるといわれる。私も見ていて安すぎると思った。アメリカに持っていくと5、6倍の値段になることもあり、逆にそのくらいの値段を付けないと売れないのだとか。ここ笹野民芸館ではオタカポッポの絵付け体験もできる。修学旅行生が来るときは一度に70人ぶん彫らねばならず、彫るのがとても追いつかない。お兄さんのお師匠さんは、大きなフクロウがやっと売れたと聞いた時に困った顔をしたという。あまり売れすぎるのも困るとのことで、値上げも検討していると言っていた。

 

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 右にあるのが「笹野花」で火伏のお守りらしい。

 

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 笹野一刀彫の古い作例はあまり残っておらず江戸期以前にさかのぼるのは難しいとも。上杉博物館に一部展示があるらしい。今度見に行きたい。

 

 

 ここでは、「花鳥」を買った。実に見事な花だ。ちょこんと載ったにわとりもかわいい。

 

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 次に、すぐ近くの鷹山へ。ここは初めて笹野一刀彫の店舗を構えたところで、ぶどうのツルで作ったカゴも扱っている。

 

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 ここでは「お鷹ポッポ」「尾長どり」などを買った。

 

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 (お鷹ぽっぽ)

 

  

 

・一刀彫についての疑問 

 

 笹野一刀彫とアイヌの関係について、パンフレットなどには「技法はアイヌのイノウといわれ」や「笹野の里にはアイヌの遺跡があります」等と書かれている。これは素人目に見ても正確な表現ではない。

 まず、そもそもイノウは技法をさす言葉ではない。イノウはイナウのことだろう。イナウはアイヌが祭祀の際、主に神に捧げるために作るもの(他にも伝令、守護神、魔祓いの役割があるといわれる)だ。

 確かに木を削る技法が使われている点はイナウと笹野一刀彫に共通している。しかしこのような削りかけ祭具の報告例は本州以南でもかなりある(九州北部から中国地方、近畿北部地域では少ないが)。これをアイヌだけと直接結び付けるのは無理がある。

 笹野一刀彫は笹野観音に供える削り花から発展したとも言われているのだから、むしろ東北の他の地域の削り花と近い存在だろうというのが自然な連想で、その関連性こそ言うべきではないのか。そういう全国的な、もっといえば全世界的な、削り花習俗を媒介としたうえでなら、アイヌのイナウとの関係も語れるだろう。

 また、遺跡については「笹野チャシ跡」と呼ばれる遺跡があり、年代は奈良・平安時代(~中世) とされているようだ。その実態は私が調べた範囲ではよくわからないので、この「チャシ」とアイヌ文化とのつながりの有無についてはなんとも言い難い。

 しかし、イナウという語のずさんな使い方から想像するに、「アイヌの遺跡」というのも誇張表現のように感じてしまう。

 パンフレットには「千数百年の伝統を守る 古代笹野一刀彫」とあり、おそらく連綿と続いてきた伝統文化であることを言いたいのだろう。そのために古代と結び付けるような形でアイヌとの関係を持ち出したい、という意図が感じられる。それは適切ではない。しかし、江戸時代以降も東北にアイヌ集落はあったといわれている(津軽藩など、かなり北の方だが)ので、その研究成果を参照すればアイヌとのつながりが言える可能性もあるだろうし、東北の文化の豊かさを象徴するような存在としての笹野一刀彫が立ち現れてくるかもしれない。いずれにしろ現状の書き方であれば、こじつけどころかウソと言われても仕方ない、と私は思う。

 観光地を盛り上げるために多少の誇張は今まで容認されてきたのかもしれない。今後も「どうせ来るのはたかが観光客」と、タカを括って誰も深く調べたり考えたりしないのかもしれない。しかし私が聞きかじった範囲でも研究は日々進んできている。たとえ最終的には正確を期した情報が単なる観光資源として消費されるとしても、それを嘘でも良しとして吟味せず開き直るのとは大違いだ。お節介かもしれないが、そういう商売するのはよろしくないと思うのだ(世間ではそれを詐欺という)。

 

(参考文献)

・北原次郎太、今石みぎわ 「花とイナウー世界の中のアイヌ文化ー」 北海道大学アイヌ・先住民研究センター 2015年

・「置賜の民俗 第二十三号」 置賜民俗学会 2016年 

 

 

 

 閑話休題

 

 

 

 ・笹野観音

 

  最後に笹野観音へ行く。民芸館のお兄さんが是非寄ってみてくださいと言っていたところだ。正式には真言宗豊山派長命山幸徳院笹野寺という。置賜三十三ヶ所観音霊場十九番目の札所でもある。

・ホームページ→笹野観音 真言宗長命山幸徳院笹野寺

 

 立派な門に立派な由緒書きがある。坂上田村麻呂の建立だという。蝦夷(えみし)にとってみれば、宗教の強制であり一種の同化政策だったかもしれない。

  

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 門には下駄や大きな草履がかかっている。

 

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 振り返ると、門に算額があった。最近復元されたものだろう。カラフルな図形が面白い。

 

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 石がたくさん載せられていて重そう・・・。

 

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 手水舎がなんだかかっこいい。ここでは漱口場という。

 

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 中に由緒書きがある。戦時中に金属供出にあったものを明治百年記念で再設置した旨が書かれている。

 

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 (指定文化財の看板)

 

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 特に予定にもいれていなかった笹野観音堂だが、これがすごかった。現在の観音堂天保十四(1843)年の建築。

 近寄ってみると意外と大きい。

 

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 大きなお地蔵様も。延命地蔵菩薩といい、天保三(1832)年に米沢の豪商が建立。高さ5メートルある。

 

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(笹野観音堂縁起)

 

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 観音堂のすぐ左にお鷹ポッポの銅像があった。

 

 

 

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 お堂にあがらせてもらうと、彫刻がもう、何というか、とにかく凄い。まずは格子の前まで行ってお参りする。見上げると扁額も立派だ。

 

 

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 石があった。どういういわれがあるのか?

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 屋根の下も風格がある。

 

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 やはり茅葺きを維持するのは大変のようで、毎年部分修復を行っているようだ。ごく少ない額だが募金した。

 

 

 

 振り返ると長押に何枚かの絵馬が掛かっていた。向背の内側から見る彫り物も、またこれがものすごい。

 絵馬についてはこちらに書いた→(笹野観音の絵馬と奉納物 - 絵馬ブログ

 

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 今度は外からじっくりと見る。正面には唐獅子に挟まれて龍が三体と鳳凰がいる。この大胆にして繊細な表現力!あまりに精巧で、眼前で何が起きているのかわからなくなる。

 

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  (正面の龍)

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(左の龍)

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 見ていると気が狂いそうだ。

 

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(右の龍)

 

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 少し離れたところから屋根の上も見てみる。茅葺き屋根にも凝った装飾がある。

 

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 裏手へ。この屋根のずっしりとした量感。

 

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 (お不動様が刻まれた石)

 

 

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 (お鷹ポッポと)

 

 

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 ちょうどよい具合に観音堂の正面に東屋があり、ここに荷物を置いてバスを待ちながら1時間くらいずっと飽きずに写真を撮ったり眺めたりを繰り返していた。18時半頃までいた。

 

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 だいぶ暗くなってきた。バス停まで戻ってきた。お鷹ポッポの背中も寂しげに見える。笹野にはまた来たい。今度は近くにある白布温泉にも是非浸かりたいものだ。

 米沢駅までバスで戻った。

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 (米沢駅

 

 

 

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 19時過ぎ、米沢の観光地はもう閉まっているし、駅からけっこう遠かったがファミレスまで行って、高速バスの時間までカレーを食べながら旅行を振り返っていた。

 日付が変わるころ米沢駅から東京へ向けて帰った。

東京は小雨が降っていた。

 

  

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 (終)

 

 

2018.8.12.一部加筆

 

山形日記④ 黒鳥観音と鶏と猫と蛸と

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 の続き。

 

 

 

・黒鳥観音

 

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   まず線香をあげてからお堂の中へ。扉は半分開いて蝋燭にも火がついていた。正面には祭壇といくつかの提灯があり、中央の厨子には観音像。左右にも小さめの仏像がずらっと並ぶ。手前には木魚がいくつか並んでいた。さすがに窓は埋まっていなかったが、天井と壁はタイルをはめ込んでいくかのようにたくさんのムカサリ絵馬が並んでいた。小松沢観音堂に比べると整理された印象だが、それにしても多い。年代的には明治のものが目立つような気がする。なんと今年に入ってからのムカサリ絵馬もあった。

  

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 ぽつんと狸がいた。

 

 別当さんと少しお話した。

 山形には最上、庄内、置賜のそれぞれ三十三観音と番外一か所を合わせた「出羽百観音霊場」がある。今年は庄内が御開帳で、来年が置賜、再来年は最上で御開帳を行うそうだ。今年は御開帳の年ではないので、堂内の写真は撮ってもいいと仰っていた。

 明治以前のムカサリ絵馬も前はあったかもしれないが、建て替えや絵馬が壊れたときに燃やして供養してしまっているので、残っていないそうだ。壊れたムカサリ絵馬は、木枠に土を詰めた上に紙を貼っているのか、バラバラ崩れてくる。以前、東北芸工にムカサリ絵馬の修理をお願いしようと思ったが、うちだけというわけにはいかず三十三観音札所全体の問題になるのでなかなか話が進まないとのことだった。建物自体の老朽化の問題もある。

 こういう信仰の風景も、いつまでみられるかわからない。

 

 

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 黒鳥観音の白い鶏。付近には白鳥山もあるそうな。

  

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 10時ころ黒鳥観音を後にした。ここからは、さくらんぼ東根駅まで徒歩。道は事前にタクシーの運転手さんに訊いておいた。だいたい40分~50分の道のりだ。雨はやみそうにない。駅まではほとんどまっすぐ進めばよいらしい。

 

 ・さくらんぼ東根駅

 

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 グーグルマップが指し示す道順に従って行くのだが、あまりに私有地の中の農道のようなところに入っていくので、ここ本当は通っちゃいけないんじゃないかな、と思いながら歩いていくと、農作物盗難警戒中の看板が。

 

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 やはりここは通るべきではなかった。とはいえほとんど横道のない一本道なので、引き返すのも少し面倒ではあった。瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず、桜桃の横を通らず…などと考えているうちに、住宅街へ抜け出た。

 

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 さくらんぼ東根駅には10時半ころに着いた。だいぶ歩いてお腹がすいてきたのでさくらんぼソフトを買って食べた。300円。汗だくの体も甘さと冷たさで少しは癒されたか。

 

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 ここから山形駅に戻って、乗り換えて米沢市に向かう。10時50分頃にさくらんぼ東根駅を出発した電車は30分ほどで山形駅に着いた。米沢行の電車の時間を調べると一時間ほど余裕があるのがわかったので、当初は行く予定のなかった山形張子のお店を訪ねてみることに。

 

 ・山形市小観光

 

 山形市には公立(県立?)の美術館がないと聞いた。47都道府県唯一かもしれない。

 市内にはお城や博物館など見どころは多数ありそうだけれど、これから向かうのは「岩城人形店」だ。

 駅から歩いて15分ほど、街の中通りにあって少しわかりにくい。張り子人形の他、社交ダンス用品の店や不動産業も兼業しているらしい。

 

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 中に入ると社交ダンスコーナーやらなにやらいろいろある中に、張り子が置かれた棚があって、おとなしそうなおかみさんが出てきていろいろ説明してくれた。

 一度にまとまった個数つくるので常にたくさんの種類の在庫があるわけではないのだとか。この日はたまたま何種類もあったのでよかった。やはりウサギ年の年賀切手になった玉乗りウサギや、まり猫が人気だそうだ。小さくて値段としても求めやすいからか。最近は招き猫も人気がある。龍や蛇はあまり人気がない。干支の置物の他、だるまやお面を作っている。最近は本でもよく紹介される。来る人はたいていみんな写真を撮りたがる(恥ずかしながら僕も写真を撮りたがったひとりだ)。

 結局「まり猫」を購入。「小さくても大きくても張り子は全部工程が一緒ですから」と言いながら箱に詰めてくれた。

 

 

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 (まり猫)

 

 

 

 山形駅を12時16分に出発し、1時間ほどで米沢駅に到着。天気は変わらず曇っていて、よくない。

 

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 ・米沢観光

 

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 (米沢駅

 

 13時ころ米沢駅に到着。まず駅から歩いて相良人形の工房を訪ねる。雲行きは怪しいが、雨は降っていない。

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 途中、笹野一刀彫のレリーフがあった。この後まさにこの笹野まで行くことになる。

 

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 (相良人形の看板)

 

 相良人形は、藩主親衛隊の武士が財政立て直しのため陶器製造を習得し、それを活かして土人形作りを始めたという。

  現在は八代目が制作している。工房は一見普通の民家のようだが、訪ねれば小売もしてくれる。事前に訪問時間を決めて電話しておくのが良かろう。

  八代目はいらっしゃらず、先代の奥さまのおばさまが対応してくださった。「駅から歩いてきてエライねぇ、ハイヤーで来る人はすぐわかる」と言っていた。客層は女の子の方が多い、あと男のひとり者とかで、若い人はやはりインターネットで調べて来るそうだ。

 相良人形は都内でも雑貨屋や喫茶店で売っているところが何ヶ所かあるようで、催事にもしばしば出品されている。特に「猫に蛸」というのが人気で、ニセモノまで出回るほどだとか。「儲かると思ってやっているのだろうが、そんなに甘くない」とも。

 私もせっかくなので「猫に蛸を」ひとつ購入した。

 そのほか騎馬武者が水中に入る様をかたどった人形があったので「宇治川の先陣争い」かな?と思い購入したが、調べると「敦盛」だったようだ。裏面を見ると七代目のサインがあった。おばさまは、いとおしそうに人形を眺めて、ひとこと「顔がいい」と仰った。私にはもったいない人形のようにも思えたが買ってきた。

 世間話をしながら随分いろいろもてなしてもらった。長居してしまった。

 

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 (今回買った猫に蛸)

 

 米沢といえば上杉神社だろう。名君といわれる上杉鷹山はあまりに有名だ。相良人形の工房から行けるか尋ねると、少し距離があるが若いのだから歩けるよ、と言われた。一度駅まで戻り、駅前から放射線状にのびる道をまっすぐ歩いていく。平日でもあり人通りは多くなかった。この辺りが街のメインストリートになるらしい。米沢牛のお店が目についた。

 結局道に迷って30分くらいでやっとたどり着いた。ここまでくると修学旅行生らしき学生たちも見かけたし、けっこう賑わっていた。

 

 

 

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 上杉神社上杉謙信を祀る。参道の手前には上杉鷹山ら6柱を祀る松岬神社がある。神社の入り口付近には「龍」と「毘」の旗が立ち、やたらと銅像や石碑が建っている。上杉謙信上杉鷹山上杉景勝直江兼続など・・・。そういえば何年か前に「天地人」という大河ドラマもあった。ここは戦国ファンにはたまらない場所だろう。ちなみに伊達政宗が生まれたのも米沢で、その石碑も建っていた。

 

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 (有名な上杉鷹山のことば)

 

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 上杉神社本殿は、米沢出身の伊藤忠太の建築。広くとられた敷地や建物の配置からは、明治以降の日本の神社や建築がしばしば持っている、いかにも作り上げられて演出されているタイプの神聖さを感じさせる。

 

 

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 宝物殿は「稽照殿」という。重要文化財がたくさんある。本でみたことがあるような有名な甲冑がずらり。「毘」の旗も。めずらしいものでは「謙信自筆の片仮名イロハ」という、上杉謙信が幼少時の上杉景勝にイロハを教えるために書いたいわば見本があった。

 

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 (デカい・・・)

 

 

 この辺は観光スポットで、上杉神社はそもそも米沢城址にあるし周囲には上杉博物館もある。だが今回はそこへは寄らず、上杉博物館の道路を挟んで向かい側にあるバス停から白布温泉行のバスで米沢市笹野本町へ向かう。目的は、笹野一刀彫だ。

 15時48分発のバスに乗り込む。ちょっと慌ただしかったが、上杉神社は30分ほどしか見られなかった。バス車内は私の他、ほとんど誰もいない。白布温泉ってどんなとこかな、今度来るときはゆっくり温泉に浸かりたいな、などと考えていると、すぐ10分ほどで到着した。

 

 

 

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 バス停「笹野大門前」で下車すると、角になにやらデカいオブジェが。

 

 に続く。

 

 

 

山形日記 ③ 小松沢観音

 

 の続き。山形旅行の2日目。

  

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 ・再び村山へ

 

 朝5時半頃に起きてすぐ荷物をまとめ、昨晩買った安い弁当を掻き込んでから山形市のビジネスホテルを出た。この日の予定は、午前中にムカサリ絵馬を見るため観音堂を二か所まわり、山形駅まで戻ってきて乗り換えて、午後は米沢市まで行く、というなかなかのハードスケジュール。

 

 まずは昨日も訪れた村山市までJRで行き、駅から歩いて小松沢観音を目指す。小松沢観音は若松観音と同じく最上三十三観音の札所のひとつ。

 本当は前日のうちに同じ村山市最上徳内記念館と一緒にまとめて見るつもりだったのだが、その日に予定を変えて山寺に行ったのと、つい徳内記念館に長居してしまったということがあり翌日に持ち越した。旅先で勧められたお店に寄ったり目的地に行く順番を変えたり、一人旅だと気まぐれでスケジュールの変更ができてよい。

 前の日に徳内記念館の職員の方に観音堂はどのくらい遠いのか訊いたところ「駅から1時間ほどだろう。山の中にあるから徒歩はやめたほうがいい」と言われていた。

 しかし、観音堂は本来は巡礼の地である。朝の元気のあるうちに歩いて行ってみたい気持ちがあった。携帯で調べたところやはり徒歩1時間ほどのようだった。早朝の澄んだ空気の中、森林浴がてらのんびり歩いてお参りするのも悪くないと思ったのだ。疲れたらタクシーを使えばよい。

  

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 6時前には山形駅をでる電車に乗った。朝早くだからそれほど混んではいなかった。部活動に行くらしい学生がぽつぽつ座っていた。車窓の風景は住宅街から町工場、川、ビニールハウス、田園と目まぐるしく変わる。山並みも変化に富んで、遠くにあった山がいつの間にか目前にそびえていたりと飽きさせない。

 

 6時半ころ村山駅に着いて、最上徳内記念館とは反対の出口を出る。山に向かってまっすぐ道が伸びている。携帯の地図を頼りに歩いていく。

 

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 ・小松沢観音までの道のり

 

 駅前からのびる道をひたすら歩く。人も車もほとんどいない。なにせ朝の7時にもなっていないのであるから当然だ。途中で一度右に曲がり、再びまっすぐ進むと駅から40分ほどでなかなか立派なお寺のある十字路にたどり着く。県の文化財にもなっている古い石鳥居が目印になる。お手洗いを借りて小休憩。

 ここには小松沢観音堂まで1.3キロの看板が出ていた。もう15分も歩けば着くかな、と思ったのが甘かった。そこを通りすぎると左手にソーラーパネルがたくさんあり、右手には幟が立って観音堂への道の看板が出ている。ここからが本番だ。ずんずん山道へ入っていく。

 

 

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 道は舗装はされていて歩きにくくはない。どんどん人里から離れていくので次第に不安になってきた。こういうときにまず頭に浮かぶのは「急に熊でも出てきたらどうしよう」ということだ。それでむやみに咳払いをしたり、鼻歌を歌ったりしてみた。道のそばに静かに流れる小川を眺めたり、自然と耳に入ってくる鳥の鳴き声を聞いたりしながら歩いていると、いつの間にか熊への不安は忘れていた。

 ときおり道の両側の草木の間から、石碑や祠が現れる。いにしえの巡礼者が目にしたのと同じ風景を目にしていると思うと感慨深い。

 

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 山道を歩き始めて15分ほど、鳥居があった。しかしまだ到着というわけにはいかない。ここからさらに10分以上山道を歩いた。急斜面に作られた古びた石段はところどころヒビが入り強く踏むと崩れそうでひやひやした。

 

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 不動堂があった。たくさん鉄製の剣が絵馬に貼り付けられて奉納されていた。だいぶ錆びて剥がれかけたものもあった。

 

 こうして山道を歩いていると、ぼんやりと、自分の今までのこと、これからのことに思いを巡らせてしまう。

 

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 やっと表参道に着いた。またもや急な石段が立ちはだかっていた。ゴールが見えているので足取りも軽く登りたいところだったが、へとへとだった。村山駅から1時間半近くかかった。先が見えないので本当に長い道のりのように感じた。だが気持ちの良い散歩ではあった。

 

 

 ・小松沢観音

 

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 山門には村山名物の巨大わらじが掲げられている。あたりには誰もいない。

 

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 境内は大きくない。自然に生えたものか、それとも植えられたものか、山中の寺院に白い花があまりに似つかわしかった。

 

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 壁にも扉にもたくさんの札が貼られている。開けてはいけないような雰囲気がある。

 恐る恐る開け放った扉から堂内に光が差し込む。「觀世音」の額や提灯、祭壇が照らされた。一歩中に入るとセンサーがあって小さい照明も着いた。照明がつくということは、しばしば扉を開けて参拝する人がいることを示しているわけで、歓迎してもらったような気持ちになってホッとした。

 あたりを見回すと、新旧のおびただしい量のムカサリ絵馬、お札、千羽鶴ほか奉納物で壁から梁の上まで埋め尽くされていた。中が暗いのは障子も何もかも奉納物ですっかり埋まってしまっているからだろう。たくさんの奉納物に監視され試されているような気持ちで恐る恐る蝋燭を灯してお参りした。
 本来は博物館で保存するのが望ましいような絵馬も含まれているのかもしれないけれど、堆積するように奉納物が飾ってある姿を見られることはありがたく貴重なことだ。

 参考:小松沢観音の絵馬 文化遺産オンライン

 

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 ムカサリ絵馬に限らず、武者絵の絵馬や歌舞伎の絵馬もある。

 

 観音堂の背後の坂を登ると鐘楼がある。その途中でお花の写真を携帯で撮っているおばさんが居た。おはようございますと挨拶したが、すぐ居なくなってしまった。別当さんだったのか、散歩しにきた地元の方だったのか、わからない。

 結局、境内には1時間ほど居た。とにかく観音堂の各種の奉納物の存在感がすごい。「奉納物とは奉納者の想いが形になった物だ」と簡単に言えば言えてしまう。しかしそれらが全て違った来歴を持ち、無秩序に吹き溜まるように観音堂に納められている有様は、私の力量ではとうてい言葉で表現できない。圧倒され、得体の知れないものを見たときのような動揺を覚えた。

  

 

 ・黒鳥観音へ

 

  小松沢観音の次は黒鳥観音へ向かう。歩くと2時間はかからなさそうだが、道に迷いたくないし体力を温存したいのでタクシーを呼ぶことにした。

 地元のタクシー会社に電話する。この朝早くから山の中へ迎えに来いと言われて、電話口のおばさんの声は明らかに驚き怪しんでいる様子だった。

 

 10分ほどでタクシーが坂道を登ってくる音がしたので、参道の下まで階段を降りて待っていた。気の良さそうなおじいさんの運転手は私を乗せて一度坂を登りきって小松沢観音の駐車場でUターンし坂を下った。

 

 運転手さんは「こんな朝早くからよく登ってきたね〜」とにこやかに話しながらも驚いた様子だった。ここは最上三十三観音の中でも最も辺鄙で坂のきついところのひとつらしい。以前は朝に散歩しに来る方もいたそうだが、最近は少ないとも。さっき会った人は散歩だったのか?

 次に向かう黒鳥観音も黒鳥山の中腹にあると聞いていたので山道がキツイのか訊いてみたところ、「小松沢観音まで歩いて行くような人なら全然大丈夫だよ」と笑われた。

  昨日も村山市に来て最上徳内記念館を見たことなど話した。去年の秋に厚岸町に行った話をしたところ、厚岸が村山市姉妹都市であることは知っていたみたいだった。「行ってみたいなぁ、どんなところだった?」と言われたので、独特な地形のこと、文化財のこと、海の幸の話をした。

 

  ぽつぽつ雨が降って来た。山を下り、住宅や畑ばかりの山裾の道を走る。

 

 黒鳥観音は麓の道沿いに鳥居があり目印になっている。鳥居の右側に迂回するように坂があり、傾斜がきつめの短い坂道があり、車で観音堂のごく近くまで行ける。公衆トイレもあった。晴れていれば展望もよいだろう。

  

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 15分あまりで黒鳥観音に着いた。まだ朝の8時半ごろだ。運転手さんは「ベットー(別当)さんいるかなぁ」と言っていたので心配になったが、いらっしゃっていた。白い鶏が2、3羽飼われていて、小屋の周りを歩いていた。

 

 

 

 に続く。

  

  

 

浜田知明の訃報に接して

(神奈川県立近代美術館(2010年)展示図録。表紙の作品は「アレレ…」(1974年))

 

 

浜田知明の訃報 

 

 戦後日本を代表する銅版画家を挙げれば、駒井哲郎、長谷川潔、浜口陽三、そして浜田知明の名がでるだろう(ここに池田満寿夫を加える人もいるかも知れない)。

 

 先日、その浜田知明が亡くなったというニュースを目にした。100歳で死因は老衰というから大往生と言っていいと思う。今年の3月にも町田市立国際版画美術館で個展が開かれており、行けなかったことが悔やまれる。

熊本県御船町出身の彫刻家浜田知明氏が死去|【西日本新聞】

浜田知明 100年のまなざし | 展覧会 | 町田市立国際版画美術館

 

 私は銅版画を制作した経験があり、何度か実物の作品を拝見する機会を得た。その上で浜田の作品制作の方法について思うところを書いてみたい。

 

浜田知明の技法

 

 私としては上に挙げた浜田以外の3名は技法の探求者としてのイメージが強い。

 長谷川や浜口は現代のメゾチントの第一人者で、駒井は「銅版画のマチエール」という分かりやすい技法書を書いている。一方で浜田は技法よりも技法によって表そうとした何かが作品から強く感じられる。

 

 もちろんそれは技法の裏付けがあってこそである。銅版画を制作した経験のある者なら、高い水準の技術を感じざるを得ないだろう。揺るぎない安定感と完成度を持ったエッチングの線(1953年の「風景」や、1958年の「飛翔」、1961年の「馬のトルソー」、1967年の「風景」、1969年の「騎士と鍵と女」など)や、アクワチントの粒子の美しさ(1954年の「初年兵哀歌ー風景(一隅)」、1977年の「家族」、1979年の「取引」など)を見て、ため息をついたことは一度や二度ではない。浜田の作品の技法に関して言えば、的確で過不足なく用いられている点を、私は特に強調したい。

 

浜田知明の画法

 

 それでも、改めて指摘するまでもなく浜田の作品はストレートに風刺画的であることを抜きには語れない。風刺画としての「ひねり」はもちろんあるのだが、風刺画に取り組むということに関して、正面から取り組んだ作家だと思う。初期の従軍経験を作品化した中ではやはり「初年兵哀歌シリーズ」が代表作になるだろう。これら作品は浜田自身を代表するだけでなく戦後日本美術の重要作品であることに疑いはない。他にも、人間の性格や感情をユーモラスに表した1974年の「アレレ…」(技法的にも非常に冴えている)や、核戦争を戯画化したような1988年の「ボタン」(A)と「ボタン」(B)など、笑いを交えつつ一歩引いて人間を観察し表現することにおいては類例のない作家だと思う。

  

 作品の多くは風刺画のようである、とは言えるけれども、それ以外の共通点はなかなか見出しにくい。浜田の作品は、ひとつの主題を発展させていったような作品群ではない。いつも全てを一からスタートさせて制作していったように見える。そのつどテーマがあって、向き合う人間の様相があった。その結果生まれた作品群なのではないか。

 

浜田知明の言葉

 

 浜田の画文集に「浜田知明 よみがえる風景」(求龍堂)がある。数年前にこれを読みながら、浜田の作品と言葉について短い文章を書いたことがあった。それは以下のようなものである。

 

 

 
(前略)
 私が浜田の作品に強く惹かれるのは、何よりそのテーマ性と、それを形にする際の考え方だ。
 浜田は作風の確立について、次のように語っている。「単なる戦場の表面的な描写ではよく戦場を描き得たということにはならないし、人間心理の深層にまで照明をあてることはできない。あまりに抽象化することは見る人に描かれたモチーフへの手掛かりを失わせ、作家の意図を曖昧にしてしまうおそれがある。時代の思潮に敏感であろうとするような、新しいとか古いとかいうような形式的な問題に拘泥せず、是が非でも訴えたいものだけを画面に残し、他の一切を切り捨てた」。
 浜田の作品では「是が非でも訴えたいもの」だけをテーマに描かれている。だから作品が非常にシンプルに形になっており、メッセージが分かりやすく鋭く伝わってくる(中略)
 また、浜田の作品を見て驚かされるのは、そのテーマの普遍性と、その普遍性を保ちつつ形にするセンスだ。「新しいとか古いとかいうような形式的な問題に拘泥」しがちな自分にとって、浜田の作品は戒めになっている。
(中略)
 浜田の「誰のために描くか」という題の文章がある。その文章で浜田は、「ぼくもまた自分のために描く」と答えたあとに続いて、「作品を発表するとぼくはじいっと彼等の反応を確かめる(中略)ぼくの表現したいものが、正しく彼等に伝わった時の悦び、活字にもならなかった時の無言の警告。ぼくは自分のために、そして一握りのぼくを信頼してくれる幾人かの人々のために、まだ見たことも会ったこともない、これらの人々に連なる多くの人々のために描く」と書いている。
 「誰のために描くか」というのは、作家にとって究極の問いの一つだと思う。

(中略)

 上記の文章に表れているように、浜田は常に自分の作品がどう受けとられているか点検し、「信頼してくれる幾人か」に対して作品を通して何ができるかを考えて描き続けるのである。浜田は自己中心的になることもなければ、大衆や社会のために描くなどと上辺だけの綺麗事をいうこともない。
(中略)
 ただ、浜田の作品から私が受けたような感動を、誰かが私の作品によって受けることがあればそれ以上にうれしいことはないし、そのようになるべく、作品を作り続けることと、発表し続けること、また自分に対しても厳しい視線を向け続けることは止めないでおこうと思う。

 (引用以上)

 

・浜田の制作の方法

 

 ここに書いた浜田の作品と言葉への気持ちは、今もそれほど変わっていない。

 そして、浜田の技法と画法(あえて絵画制作の態度をこう呼んでみたい)は、分かちがたく結びついたものであることに、いまさらながら気づかされる。

 

 浜田が銅版画を選んだのは必然だろう。その工程には計画性が求められる。ちょっとでも長く薬品に漬けすぎたりすれば、ごまかしが効かなくなる。絵の構図についても、モノクロで少ないモチーフを絵にすることはとても容易ではないことが想像できる。おそらくたくさんの試作や失敗作があっただろう。

 しかしその分、作品は研ぎ澄まされたものとなり得る。

 また「ぼくは自分のために、そして一握りのぼくを信頼してくれる幾人かの人々のために、まだ見たことも会ったこともない、これらの人々に連なる多くの人々のために描く」という言葉を浜田は残した。

  制作の動機にまず自分を据えること。そして、おそらく顔が見えるくらい具体的で数少ない、信頼する人々のために描くこと。さらにその延長線上に、未来に生きる誰かをも見ること。私はこの言葉はそういう意味だと思う。

 きっと浜田はいつでも丁寧に、愚直に、何かを(例えば自分の立ち位置を)確かめるように作品を作ったのだろう。そういう態度に銅版画は合っていただろうし、浜田をいっそう内省的にさせたかもしれない。

 

 浜田が東京美術学校で「聖馬」(1938)を作ったのが20歳の時だという。

 尊敬すべき作家の訃報に接し、人間の愚かさと人間の真っ直ぐさとを愛した80年に及ぶ長い画業を、心から讃えたい。

 

 

 

 (僭越ながら敬称を略させていただいたことをここにお断りいたします)。

 

 

 (終)

 

 2018.7.21 一部改変、追加、誤字訂正

山形日記 ② 最上徳内記念館と巨大ぞうり

 

 の続き。立石寺から村山市へ。

 

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 ・村山駅

 

 14時ごろ村山駅に着く。

 「ようこそ バラ・そば・徳内の街 村山市へ」という幕があった。「徳内」だけは聞きなれない言葉だという人も多かろう。これはなにか農作物とか名産品の名前なのではない。いわゆる郷土の偉人というやつで、数学者であり探検家の最上徳内(宝暦四~天保七(1754~1836))のことだ。私が村山市に来た目的も何を隠そう「最上徳内記念館」を見るためだ。最上徳内蝦夷地を「探検」し、その成果は幕府の意思決定に影響を及ぼした。私は昨年北海道の厚岸町へ行き、徳内の活動の痕跡を何ヶ所かで見ている(詳細は→厚岸日記① - こたつ島ブログ厚岸日記② - こたつ島ブログを参照)。厚岸町村山市姉妹都市である。

 

 山寺駅ではSuicaで入場したのだが、村山駅ではタッチで清算できず駅員さんに窓口で清算してもらった。Suicaの取り扱いは、機械があっても清算できなかったりそもそも機械がなかったりと駅によっていろいろだ。地方だと大きい駅でもタッチできる改札すらないこともある。急いでいる時などは切符を買っておくのが無難だ。

  

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 駅構内には大きなわらじが飾ってあった。どこかで見たことがあるなぁと思うものの思い出せない。この後も何度か大きなわらじを見ることになった。

  

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 駅前には二体の人物彫刻が駅を背にして立っており、まっすぐ道が伸びている。駅に隣接するホテルを除いて周囲に高い建物は見当たらず住宅街の間を抜け駅前の道を進んだ。幹線道路らしい片側二車線くらいの大きな道路に突き当たる。ちょうど午後のいちばん暑い時間帯。街路樹のような遮るものは何もなく日差しがきつい。

 

 その道を右方向へ進むと道路の向こう側に「北方探検の先駆者 最上徳内記念館」の看板が見えた。看板の前まで来ても入り口がどこにあるか分からず、間違えて隣接する警察署の駐車場に入ってしまった。館の正面は大きい通りに面していない。建物の横から大きく回り込んで正面入口へ。

 

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  やっと14時30分頃に到着、入館した。

 建物は地下に受付やメインの展示室があり、まずそこを見る。順路の通り階段を上がると明治時代の古民家に行くことができ、さらに古民家を出ると屋外で、最上徳内銅像や顕彰碑などが庭にある。庭を抜け、アイヌ文化を紹介するチセへ行き、また館の入り口へと続く渡り廊下を通ったのち螺旋階段を下りて、これで館内を一周したことになる。

 最上徳内の事績を顕彰するのみでなく、市の歴史博物館も兼ねている施設のようだ。

  

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 ・徳内記念館

 

  館内に入ると初めに階段がある。地下だからか館内は薄暗い。

 受付に声をかけるとお姉さんが出てきて「どこから来たんですか?」「外は暑いですか?」などと会話しながら麦茶をだしてくれた。暑かったのですぐ飲み干してしまうと、すかさずワンコそばのようにお代わりをくれた。

 「時間があればまずこちらから・・・」ということで20分ほどで最上徳内を紹介する「白き虹を見た」というタイトルのVTRをエントランスで見せてもらうことになった。「白き虹」とは徳内の号「白虹斎」からとっているのだろう。エントランスにはスクリーンが立てられ、椅子がいくつか置いてある。傍らには土器が入った古そうなガラスケースもあった。

 

  映像は、「山形は紅花やタバコの生産が盛んで武士より商人が強く自由な気風があった」というような説明からはじまる。最上川の水運は酒田へ、そして北前船へと荷物を運んだ。徳内が赴くことになる北の地と山形はしっかりつながっていたわけだ。

 現・山形県村山市楯岡の貧しい農家に生まれた徳内はタバコの行商に従事していたが数学が得意で、27歳で江戸へ出、経世家で数学者の本多利明の塾で天文、地理を身に着けた。芝の愛宕神社算額を奉納したこともあった。本多の推薦で、田沼意次の発意による北方探検に測量の助手として参加したのは31歳の時。以後9回蝦夷地に渡航した。この時に厚岸の総乙名イコトイの協力を得て、国後島択捉島、得撫島を探検、ロシア人イジュヨらとも会っている。渡航4回目には厚岸に神明宮を建立、渡航6回目には近藤重蔵らとともに択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てた。蝦夷地での勤めを終えた後は八王子の製蝋事業に携わったりシーボルトと交流して日独アイヌ語辞典を作ったりしていた。この時に渡した地図がのちにシーボルト事件に発展する。徳内は82歳で江戸で没した。

 

 

 

 館内(撮影禁止)は様々な蝦夷地の地図や、徳内の著書、愛用の品など各種資料で事蹟を紹介していた。この時は運悪く学芸員の方はお休みだったが、職員の方が親切に一通り解説してくださった。

 職員さんとお話していて、「徳内まつり」の話になった。20数年前、村山市のお祭りでは何の変哲もない仮装行列をやっていたらしい。ある時に友好都市の厚岸町へ市の関係者が行き、そこで祭りのお囃子や山車を見て感動して真似をし、「徳内ばやし」が生まれたそうだ。今では山車や踊りのチームも随分増え、近隣の市町村からも人が集まるイベントになっているらしい。徳内がつないだ不思議な縁である。

 それを聞いて斜里町ねぷた祭りを思い出した。斜里町の場合は、幕末に警備のため駐留した津軽藩士72名が飢えと寒さで死んだことがあり、弘前市ねぷたが伝授された経緯がある。

 

 興味深い資料としては「蝦夷風俗人情之沙汰付図」があり、これには竹島が日本と同じ色で塗られているという。徳内が紹介されたシーボルトの著書や択捉島の標柱のレプリカもあった。

 また、「徳内先生を讃える歌」という、1943年に大政翼賛会山形支部が設立一周年を記念し歌人たちに依頼した歌も掲示されていた。

 

 「ますらをや 命おもわず 皇國の 北の門邉の 穢れはらいし」相馬御風

 

 「甑岳の いただき立ちて 遥かなる 天雲に寄せぬ 大きこころは」前田夕暮

 

 「最上川 ながるるくにに すぐれ人 あまた居れども この君われは」斎藤茂吉

 

 徳内の業績は国境問題に直接関わるものであり、明治四十四(1911)年に正五位が追贈され、北海道神宮開拓神社に祀られていることなどもナショナリズムの観点からも考える必要があろう。

 

 企画展も開かれており、山形市生まれで「最上流」を興した和算家の会田安明について特集されていた。安明は当時の主流だった「関流」に対し約20年に及ぶ論争を起こし、和算の発展に寄与したらしい。徳内を本多利明に紹介したのも同郷の先輩であった安明だったともいわれている。

 

 館内にはやはり北方領土返還の署名コーナーもあった。

 

 地下の展示室を見終え、屋外へ。

 

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 明治時代の古民家が移築されている。

 

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 徳内の胸像。地元出身の彫刻家・村岡久作の作。

 

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 徳内の視線の先には北海道の形の島が浮かぶ池があった。

 

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 顕彰碑。碑文の揮毫は金田一京助レリーフは新海竹蔵。

 

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 チセがあった。ガラス窓がはまっているがたぶん適当に作ったものではない。建てたときにアイヌの方が儀式をした様子を撮ったらしい写真があった。アイヌの民具や厚岸から寄贈された熊の剥製のほか、近藤重蔵、イコトイ、ロシア人イジュヨの三人が地図を見ながら語らう様子を再現した小さい人形などがあった。

 

 

 

 「徳内グッズ」でもありそうだと思ったがほとんど物販はなかった。ただ「私の徳内紀行」という冊子を売っており、郷土史家が調べた足跡がかなり詳しく載っていた。

 

 

 

 ・村山市役所

 

 閉館の17時近くまで居て、お礼を言って帰ろうとすると「市役所に大きいぞうりがあるから是非見るように」と言われた。村山市役所は道路を挟んで隣接していた。

 入ってすぐに吹き抜けになった大きいホールがある。

 

 「デカっ・・・!!!」

 

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 ちょっとした船よりぜんぜん大きい。どこかで見たなぁと思っていたが、これは浅草寺の門に飾られることになる大ぞうりだそうだ。おおよそ10年に一度、戦前から奉納し今回で8回目とのことだ。役所が17時15分まで開いているおかげで見られてよかった。

 

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 徳内ばやしでは鳴子を使うらしい(よさこいソーランみたいだな・・・)。

 

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 今年の徳内まつりは8月24日~26日開催。

 

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 役所の入り口脇には徳内まつりの像まであった。

 

 

 ・山形市へ戻る 

 

 この日は山形市に宿をとっていた。電車の時間を調べるとまだ1時間は余裕がある。周囲を散策。日が暮れてきた。

  

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 道の駅でも「徳内ばやし」(やはりよさこいソーランに似ている・・・)。

 村山駅へ戻る。

 

 

 

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 村山駅に戻ってきた。着いたときはまったく意識していなかったが駅前の像は「徳内まつり」の像だった。

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 駅の反対側には「徳内先生誕生之処」の碑。実際は生家があったのは駅から少し東の方向らしい。

 

 

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 駅近くの看板。  

 

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 駅のホームにも徳内まつりの絵が。

 

 

 

 18時30分頃、山形駅に到着。古本屋を漁った後ホテルへ荷物を置きに行った。地元の料理を居酒屋か何かで食べたい気持ちもあったが我慢して近所のスーパーでセールの弁当を買いこんだ。

 

 グーグルマップを活用して翌日の計画をした。かなり早起きしなければならないことが判明した。日付が変わるころ寝た。

 

 

 

 に続く。翌日は朝からまたもや村山市へ来ることになる。

 

 

 

山形日記 ① 若松観音と逆回しの立石寺

 

 

  

 山形県に一泊二日の強行軍で行ってみた。

 

 私は東北六県の中では福島県いわき市より北に行ったことがなかった。いよいよ本格的に東北に足を踏み入れたという変な実感があった。そのなかで今回は、みちのく山形の主に内陸の文化の一端を垣間見た、ということになる。

  

 

 

・東京から山形へ

 

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 日付が変わるころに小雨の降る東京を出発した。夜空に光る時計塔がぼやけて見える。

 私はいつも体力を温存するため目的地へ向かう時は広めの三列シートの高速バスを選ぶ。いつものアイマスクもばっちり用意し寝る準備は整っている。なのについ旅先でどこに行こうかなどと考えてしまう。最近は旅することに慣れてきて、ドキドキすることもあまりない。今回は少しはそういう気持ちがあるのだと思うと嬉しかった。そのかわりぐっすりと寝られなかったのは痛手だが。

 翌朝、寝たか寝ないかのうちにぱっとバス車内の電気がついた。アイマスクを外してカーテンを細くあけるとすっかり明るくなっていて、窓の下にはビルやマンションが立ち並んでいる。なんの変哲もない、いかにも地方という感じの見知らぬ街が山形市だった。

 

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 山形駅前に到着したのは6時半ごろ。駅に入る。山形駅は線路の上に改札があってホームへ降りていくタイプの駅舎だ。駅そのものの規模の割に改札や切符売り場が小さいように思った。次の電車まで時間があるので腹ごしらえしようと売店へ。お土産用のお菓子ばかりで、駅弁もまだほとんど入荷していない。結局コンビニのパスタをイートインでさっと食べた。

 

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 まず、歌川広重の美術館や将棋の駒の生産で有名な天童市へ。東京から持ってきたお菓子を食べながら電車で向かう。あまり旅行客のような人は見当たらず、通学する中学生や高校生が多かった。7時半ごろ天童駅に着く頃にはほとんど学生ばかりの満員電車になっていた。下車したのもほぼ学生だった。

 駅前の郵便ポストの上には「王将」の駒が載っている。

 

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 タクシー乗り場へ向かう。何台か並んだ先頭のタクシーの運転手のおじさんは、すっかり新聞に夢中で乗客(私)があらわれたことに気が付かない。数十秒経っても気が付く様子がまったくない。声をかけようとすると後続するタクシーから「ビーッ」とクラクションがなった。すると、運転手は飛び起きるようにこっちを振り返って驚きながら「どちらまで?」と。

 

 

 

 ・若松寺

 

 朝一番に向かったのは開山千三百年を数える若松寺(じゃくしょうじ)だ。通称を若松観音(わかまつかんのん)といい、花笠音頭で「めでため~で~た~の 若〜松様よ♪」と歌われるあの若松様である。

(ホームページ:http://www.wakamatu-kannon.jp/

 

 運転手のおじさんが、「行ったら五重塔?か何かがあるから、そこに扉があるから行って開けてみて、勝手に開けていいよ」と説明してくれるが、なんのことかよくわからず。街中をぬけ、畑を横切り、車はどんどん山の中の一本道へと入っていく。まわりの杉の木立は私にとってあまり見慣れないもので、それだけでも十分わくわくする。一瞬、緑の中に埋もれるように鳥居や碑があるのが見えた。15分ほどで到着した。

 私は滅多にタクシーには乗らない。しかしここは最寄りのバス停まででも徒歩で一時間以上かかるうえ本数が少なく、しかも平坦な道のりではない。タクシー代は2000円くらいかかったが止むをえまい。

 たぶん私がこの日一番目の参拝者だったろう。

 

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 (地蔵堂

 

 境内には誰もいないかった。入ってすぐ左に地蔵堂があった。ここには乳房を布で立体的につくった絵馬が何枚も奉納されていた。

 

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 (観音堂

 

 靴を脱ぎ中にあがって重文の観音堂を参拝。室町時代後期の建築で慶長年間(1596~1615)に最上義光が大修理を行ったという。江戸時代の絵馬が何枚もあったので見上げていると、寺僧らしきおじいさんが来たので挨拶した。「早いねぇ、タクシーで来たの?」などと言って親切に境内ガイド用の道具を貸してくれた。日本語、英語、中国語を選択してから写真をペンでタッチすると音声が流れるという優れモノだ。

 この寺は他に重文の鎌倉時代聖観音懸仏や、これまた重文の室町時代に奉納された絵馬があるが、いずれも保存のためふだん近くで見られるようにはなっていない。

 

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 (境内ガイド)

 

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 景色がよい。眼下にタクシーで登って来たらしき道が見える。

 

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 (鐘楼)

 

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 (縁福大風鈴)

 

 縁福大風鈴。パンフレットには「二人で鳴らせば結ばれる」とある。そもそもこの場に来て二人で鳴らすような人たちはもう結ばれていると思う。お守りがたくさんぶら下がっていた。

 

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 私がここに来たの理由は今回の旅の目的のひとつでもある「ムカサリ絵馬」を見たかったから、だった。

 ここは縁結びの寺として有名で平日朝早くなのにもかかわらず、それほど多くはないけれど私の後にも何人も参拝者が来ていた。中には「住職さんいませんか」と訊く人がいて、それはこの寺の住職と会って握手すると良縁に恵まれると言われているかららしい。

 そういう対応に追われているのを目にしていたのもあって、寺の人になかなか声をかけにくかった。幸いにも私は朝一番に来ていて、すでに観音堂で絵馬に興味があるという話をしたときに寺僧さんには本坊にも来るようにと言われていた。

 

 そして本坊にある最近のムカサリ絵馬を見せてもらった。

 

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 (本坊)

 

 ムカサリ絵馬とは江戸時代からの山形県最上地方の風習で、結婚せず亡くなった死者のため架空の結婚相手を死者と共に描き奉納するもの。ムカサリとは婚姻とかお嫁さんをさす方言だ。

 絵師に依頼することも多いけれども、今は寺の方針として、下手くそでも出来るだけ故人の縁者に描いてもらうようにしているという。奉納されたものは千数百点にもなる。すべて保存し、いつでも供養できるようにしてある。「東日本大震災のあとは増えましたか」と訊くと寺僧さんは「何枚かあったが、まだ生活が落ち着いていなくてそれどころではないのだろう」と。

 男女が一対で描いてあるほかは画材も大きさも描き方もいろいろだ。共通するのは、それぞれの絵馬に描かれた人はすでに故人であり、しかも架空の人物と共に表されているということ。彼岸と此岸の境目にあるようなひとつひとつの絵馬に込められた供養の思いに息が詰まりそうだった。私はムカサリ絵馬を見ていて、やましいことをしているような気持ちにもなった。絵馬の中の人々は多くがこちらを見ているが、この絵は全くもって私たちのためのものではなく、故人の冥福のため、また観音様に祈願するため、そして縁者の故人への思いを形にするためにある。私たちがいくらこれを見たところで、また絵の中の人物にいくら見返されたように感じたところで、その視線は存在する意味のないような、宙に浮いたものになってしまうのかもしれない。

 

 タクシーのおじさんが是非開けてみてと言っていたのは、古いムカサリ絵馬があるお堂のことだった。元三大師堂の下がコンクリート製のお堂のようになっているのだ。

 こちらの絵馬は割と古いものが多く、本坊の最近のものと比べるとあまり生々しさが感じられなかった。新しいムカサリ絵馬は結婚式の晴れ着をまとって記念写真を撮ったような、肖像画のような形式が多く、一方で古いものは寺社に参拝する様子を描いているものが多いように感じた。

  

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 (元三大師堂の下のムカサリ絵馬堂)

 

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 算額も。

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  ムカサリ絵馬を見ていると先ほどの寺僧さんがやってきて「ここから山寺まで行く無料の観光バスがあるよ」と教えてくれた。本当は翌日に山寺を参拝しようと考えていたのだが「これもなにかの縁かなぁ、観音様の導きかなぁ」などと思って、そのバスに乗ってみることにした。

 まだすこし時間があったので、古参道の方にも行ってみた。いかにも、な古い道だ。ここに来る途中で見た鳥居はこの参道の入り口だったようだ。

 

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 ・立石寺

 

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 (バス停代わりの幟)

 

  小さな10人乗りくらいのバスは寺僧さんに教えられた通り定刻の10時04分に坂を登ってきた。乗ってすぐおじいさんの運転手には「どうやってここまできたの?タクシー?」と訊かれた。他に老婦人が2人乗っていた。山寺までの道すがら運転手はずっと乗客に向かって喋っていた。私には「ムカサリ絵馬見ました?若い人はどう思うのかなぁ、気持ち悪くなかった?」と言われたので、わざわざ東京から見にきて感動したとも言えず、「そうですね、変わってますね…」と曖昧な返事を返すより仕方がなかった。

 運転手は「ここからだと鳥海山は見えないんだけど、今日は月山は見えるかなぁ」などと話しながら、老婦人相手には「今の日本は年寄りが頑張ったおかげでできた、そうでなければ日本はもっと貧しい国だったはずだ、若者はもっと年寄りを労らなければならない」などと本心なのか、接待トークなのか、そういう話をしていた。私は年寄りは尊重するタチだが、ここで返答を求められても困るので空気のように気配を消していた。

 山裾の道を走って行くとだんだんとさくらんぼ農家が道の両側に増えてきた。運転手はさくらんぼ狩りの話をし始めた「やはりビニールのかかっていないさくらんぼの方がおいしいし、木の上の方になっている方がおいしい」「うまくさくらんぼをもぐには蟹の足のように反対側(?)に引っ張ると簡単に採れる」などなど。

 

 

 

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 (山寺駅

 

 山寺駅前にバスが着いたのは10時半前。下車して案内板を見ていたら先ほどの運転手がすぐ追いかけてきて「時間があって登るなら、最初に一番上の奥の院まで登ってしまって、降りてくるときにゆっくり見たほうがいいよ。登りながら見ると億劫になるから。旦那さん若いから15分くらいで登れると思う」「この先を行った右側に観光案内所があるから、地図貰うといいよ」と親切に教えてくれた。こういう気づかいは本当にうれしい。

 せっかく教えてもらったので、郷に入っては郷に従えで、地図を貰って休みなく一番上まで登ることにした。

  

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 通称を山寺という宝珠山立石寺は、貞観二(862)年に清和天皇の勅願により慈覚大師が開いた天台宗の寺院。松尾芭蕉が元禄二(1689)年、旧暦五月二十七日(新暦七月十三日)にここを訪れ「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠んだのはあまりにも有名だ。

 この涼しげな句から想像するに、芭蕉がここに来た日はそれほど暑くなかったのではないか。私が訪れた日は天気が良く暑かった。セミの鳴き声は聞こえなかった。

 

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 (芭蕉曾良の像)

 

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 (こけし塚)

 
 一息に登ろうと思いつつも、降りてきてまた見るのは面倒そうだと思ったので、境内に入ってすぐにあった宝物館だけ先に見ることにした。

 館内は山の岩穴に納められた石塔婆や、神仏分離令で山寺に移された日枝神社の本尊の三尊(釈迦如来阿弥陀如来薬師如来)、慈覚大師が中国での巡礼の際求めた財宝で作った如意宝珠、お経を一字一字書いた卒塔婆をまとめた笹塔婆(杮経)、天狗や烏天狗のぞうなど、狭い館内ながら天台密教修験道神仏習合のありようが垣間見える宝物がいろいろあった。

 あとは汗をだらだらかきながら、ひたすら登る。写真も撮らず、無心で登る。 

 

 

立石寺境内のいろいろ 

 

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 (奥の院の様子)

 

  その後は休みなく一気に奥の院まで登った。11時を過ぎていた。海外の様々な国から来たらしい観光客がいっぱいいて騒がしかった。これでは岩に蝉の声はしみ入りそうもない。私も観光客に違いないので修行者などに比べればここに来るべきではないのかもしれない。だがそれなりに神聖な場所を尊重し、またそれを楽しみたいとも思うので、この喧騒は最悪だった。やはり朝早く来るべきだったか。

 

 加えて、今流行りの御朱印について思うことがあった。

 奥の院御朱印を貰う人の様子を見ていると、寺僧との間でこういうやりとりをしている。まず僧が「お経は?ないの?」と訊く。御朱印帳の持ち主は当然「え、ないです」という。本来、御朱印はお経を寺院に納めた証としてもらうものだと言われている。現在は一種のブームでもあり、それを忠実にやる人はおそらくほとんどいない。私もしたことはない。すると僧は「そんなお経を納めることもしないで御朱印だけもらうのは本当はできないんだ」「御朱印をもらうなら仏の教えを広めなければ」と言い「仕方ないから御朱印書くけど、家に帰ったら一字ずつでいいからお経を書きなさい、どうせ言ったって全部は書かないでしょ」と言って書いて御朱印帳を返していた。そのようなやり取り何人かを相手にずっとやっていた。

 私は御朱印帳は一応持っていたけれど、これに違和感を感じたので貰うのをやめた。

 まず、御朱印の本来の意味から言えば、確かにお経を納めない人は貰うべきではない。私もお経をもっていない。それが貰わなかった第一の理由だ。しかし、多くの寺社ではお経なしでも参拝の証として御朱印を貰える。そのことの是非は各寺社が判断すればよいと私は思う。それが立石寺の場合では寺僧は小言を言いながらも御朱印を書いていた。そこでは確かに参拝者が経を書くことが約束されていた。だけれども、本来のあり方を説教しながらも結局書いてしまう御朱印とはいったいなんなのだろう。もったいぶってありがたく見せているだけの偽物ではないのか。書くなら書く、書かないなら書かない。そういう態度でいるべきではないのか。こういう違和感を覚えたのが貰わなかった第二の理由である。

 

 山寺の奥の院にもムカサリ絵馬があると聞いたていたがとても見られる雰囲気ではなかった。

 

 モヤモヤした気持ちを切り替え、山を下りながら堂宇を見て時にはお賽銭をあげて拝みながら歩いた。ここからバシバシ写真を撮っていったので、登った順とは逆回しで記録することになった。

 

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 (こちらを見ているお地蔵さん)

 

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 まるで斜面に寺院がひとつの町を形作っているようだ。

 

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 (五大堂とそこからの眺め。絶景)

 

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 (開山堂と納経堂)

 

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 (仁王門)

 

 獅子が口に牡丹?の花を咥えている。

 

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 あちこちに小石が積んであった。

 

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 ここを弥陀洞といい、一丈六尺(約4.8メートル)の阿弥陀如来の姿を見ることができるものには幸福が訪れるとか訪れないとか。

 

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 いっぱい並べてあるこれは「後生車」といい、若くして亡くなった人の供養のためのもの。山寺の至る所にある。南無阿弥陀仏と唱えながら回すと仏がはやく人間に生まれて来られるのだとか。

 

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 せみ塚。芭蕉の句をしたためた短冊を埋めて上に塚をたてたもの。

 

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 左にある石は慈覚大師が雨宿りしたといわれる。

 

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 (姥堂

 

 姥堂、奪衣婆を祀る。ここから下は地獄で上は極楽。地獄への坂を下っていくわけか・・・。

 

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 山門までやっと下ってきた。あとは麓でまだ見ていないところを。

 

 

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 羅漢さん。立石寺本坊の脇に立っていた。手から水が垂れ流されていた。背後にはレリーフもあった。

 

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 (根本中堂前にあった)

 

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 (根本中堂)

  

 根本中堂は重文。ひっきりなしに御朱印を求める人が来ていた。参拝だけして内陣までは見なかった。

  

 

 
 見終えたころには13時前になっていた。あまりおなかがすいていなかったので目についたお店で「山寺」の焼き印が捺された手のひらくらいの大きさの素朴な饅頭を買って食べながら電車を待った。

  

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 駅に小さな展望台があった。山寺を振り返ってみた。

 

 

 

 電車で一時間ほど移動。次は村山駅へ向かう。

 

 

 

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 (はたしてこの大わらじは?に続く)

 

 

 

「長万部写真道場 再考」⑤ シンポジウム③

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 (長万部の海)

 

 の続き。

 

 

 

 1.パネルディスカッション

 

  2018.2.25.③

 

 12時55分頃から第2部。中村、倉石、高橋の三名によるパネルディスカッションが行われた。題は「北海道における写真記録のこれから」。以下要約。

 

 

 

 (中村)まず講演の主旨の説明を。長万部写真道場の人々と同時期に道内では、掛川源一郎や東川町の飛騨野数右衛門、共和町の前川茂利、夕張市の安藤文雄ら、アマチュアカメラマンが活躍していた。また、明治時代に北海道の「開拓」を記録した写真もある。北海道は写真に撮られ続けてきた土地だ。長万部写真道場の写真は郷土資料として貴重だが、他の写真家についてなど周辺も知ることで、さらに価値が広がるのではないかという狙いがある。

 では最初に、展示についてお二人から感想を伺いたい。

 

 (高橋)驚いたのは、個人名がついていない「写真道場」という集団で撮る写真としての価値が見出されていたこと。一人の作家の限界を超えて集団で町を記録していく動きの具体的な例を目にして新鮮だった。今回の展示の写真選びもあっただろうが、町の漁業、酪農、温泉、国鉄など、あらゆる風俗産業がまんべんなく記録されていて「町の今を記録する」ことに力を注いでいたことが伝わってくる。町の営みの中に写真があった。それを中村さんが見出したこともまた素晴らしい。

 

(倉石)台紙の赤い「長万部写真道場」の字がとても目を引く。カメラクラブが名前を変えた「道場」とは切磋琢磨して剣道のように研鑽する場であることを示す。名前は重要だ。

 近代の芸術は作品を個人の表現だとし、その価値を作家性として一義的に考える。それに対して、60年代半ば以降、中央で活動していた写真家の間では先鋭的な問いとして作品や作者への疑義が露出してくる。具体的には、東松照明森山大道中平卓馬らがアノニマスの価値を語っていた。個人の表現や作品、一人の表現主体としての写真家への疑問は、写真家自身よりも、映し出す対象、すなわち風景や人々、場所の方が大事という考え方につながる。これは示唆的だ。

 50年代に地方で地道に集団制作を展開した写真道場の集団性や匿名性の重要さを感じる一方、60年代の中央の作家との間に温度差を感じた。それらの共通性と差異についても考えたい。少なくとも写真道場の表現は、作品や作者について振り返り、「自己」に内省的になることの価値について考えさえてくれるとはいえる。

 それは中村さんの写真道場の作家たちへの共感と、適切な写真のセレクトに加え、素晴らしい丁寧な解説があったからこそ。自己表現としての芸術写真は「写真がすべて物語る」とされ、被写体の解説がしばしば軽視される。適切な解説の真摯さは見る人に伝わる。

 

 (中村)私が解説を書いた。山の稜線でだいたいの場所を同定したりはできたが、ほぼ平成生まれなので分からないことが多く、町史や長万部の歴史写真集等々を調べた。意外と60代の方でも分からないことがあった。

 

 

 

・ここで長万部写真道場の元会員だった守田さんと、写真道場主宰者の一人である澤博氏の娘で今展の写真を保管していた澤薫さんから一言ずつコメントがあった。

 

 

 

 (守田さん)写真道場の活動時期は戦後まもなくから昭和40年くらいと、私が入って写真道場に改称するまで二期に分けられる。二期の間は休止していた。生活を撮ることを重視したグループ活動だった。道場だったので、河東が師範代、澤が指南役、というようにちゃんと位があり、小学生は級だった。

 (中村)新たな事実が!

 (澤薫さん)写真は「負の遺産」とでもいうようなものだったが、埃とカビ臭い写真道場に一筋の光明が差した。感謝申し上げます。

 (中村)本当にこの二人のおかげで写真展ができた。見に来てくれた町の人もよく残ってたなと仰る方が多い。

 (澤薫さん)みなさんの記憶の中に残ってくれたら幸いです。

 (中村)町史は普通、建物の写真やかしこまった集合写真が多い。長万部町史では写真道場の写真がよく使われている。町の歴史への写真道場による影響や、写真道場というキーワードで町の歴史がよくわかった。

 

 ・続き。

 

 (中村)最初は掛川について調べていた。そこから長万部写真道場を調べるようになった。

 質問。道外に道内の写真の歴史はどのように捉えられているのか。例えば「沖縄プリズム」展(参考:展覧会情報沖縄・プリズム 1872-2008では掛川の写真が「沖縄村」とだけ展示されていたが、(高橋さんの講演にあった「小島一郎の写真で南部が津軽と書かれた」例を受けて)長万部町のことなども併せて提示されていたらよかったなと思った、それらについて。

 

 (倉石)「沖縄村」については私も同意する。

 掛川への関心としては、講演でも触れた大日方欣一さん(フォトアーキビスト)が函館の熊谷孝太郎など地方の写真家の研究をしている。いわゆるローカルに徹し生涯を全うした作家への関心はここ20年くらいで研究者間で共有されてきている。掛川は写真集「genー掛川源一郎が見た戦後北海道」(2004年出版、北海道新聞社)で再評価された。

 沖縄のことでいうと、私が関わった写真集「沖縄写真家シリーズ」(未来社)の中で、アメリカによる占領時代から戦後の沖縄を撮っていた山田實がいる(参考:故郷は戦場だった - 山田實 写真 / 仲里効 タイラジュン 解説|未來社)。この人には中央との関わり方など掛川と似た面もある。中央から来た人の身請け人にもなっている。そこには「中央ー地方」という非対称性もあるが、ひとつの交流のパターンを見出すことができる。ローカリティに徹する意味の再評価の中で、北海道にはアーカイブされるべき人がまだまだいると思われる。

 逆に中村さんに質問したい。自分が生まれる以前の写真にアプローチするために地形とか空気から考えるという話があった。土地の形は大災害がなければ形をとどめている。夾雑物を捨てて残るのは地形と気象。一枚の写真を見ていくときの植生、地形等の意味など、どういうアプローチをしているのか詳しくお聴きしたい。

 (中村)例えば、掛川の「大地に生きる~」の平里地区や静狩湿原の開拓写真に写っている泥炭地。青森以北では植物が腐らず繊維が残り、一年に一ミリ以下しか地層が積みあがらない。それが湿原になる。それを知ったうえで見ると、平里では泥炭地を切って水を海に流し、腐らず残った根株を手で掘らなければならない苦しさや、農耕の技術が進歩していないかったこともあるが、気候に合わない植物を実らせようと頑張っていたことを写真から見て取ることもできる。

 (倉石)高橋さんにもお訊きしたい。開拓写真を見るポイントは?

 (高橋)やはり他の開拓写真と比較して見ること。開拓地の状況を、作物や道具、服装で比較しながら見る。

 ヌラ平開拓の場所は地図に載っていなかった地名だった。調査中、山並みで場所の確信が持てた。地形は基準点になりえると思う。

(倉石)私も、ある時期から風景は現場に行かないと分からないことが多いと思うようになり、必ずその場所に出かけて考えるようになった。同業者は必ずしもそうではない。逆に、実物偏重と言われたこともある。

 実際に現場に行って見えていなかったことが見えるのは「写真と実景のズレ」や「実景によって写真が批判される」というよりは、実景の情報を俯瞰的に反芻しながら解釈しないと風景写真の正当な価値や魅力を伝えることはできないのではないか、と思うようになった。

 別の参照項、例えば同時代の言葉による文献や、その場所を歴史的に描いてきた歌枕や、フィクションの描かれ方等々を、複合的に組み合わせることによって作品を読み解くことが必要。迂回路かもしれないが、言葉と実景と写真という違う位相にあるものの組み合わせで新しいテキストを生み出せないかと考えている。自然を読み取ることももちろん一つの参照項になる。

 (中村)長万部は天気予報が当たらない。漁師が山にかかる雲で天気予報する延長で写真を見るような。

(倉石)そういう経験から得た知恵は私には失われているものだ。

(中村)夕張に(倉石と)行ったときに天気予報が当たって「インディアンの娘」だと言われたことがある(笑)。

(倉石)自分が言ったことは覚えていない(笑)。夕張でも、やはり実際の風景、谷の深さやズリ山の形や傾斜は立体的に見ないとわからなかった。

 (中村)高橋さんへの質問。今回展示をやったことで新しい写真が発見されそうな気配がある。郷土写真の再発見の過程で、収集、展示、アーカイブする時、物それ自体をどうとらえているか?

 (高橋)小島一郎の写真は美術館が所蔵しているが、六ケ所の開拓写真は庄内の農協にある。本当は被写体の近くにあるのが写真の幸せだと思うが、関心のある人がいないと管理が難しい。失われる恐れがある。資料館か、美術館か、という問題もある。美学的な視点からだけではなく、風景と被写体との関わりの中で重要性を持ってくる写真の価値がある。そういう写真の存在の仕方があってもいいと思ってる。

 (中村)貴重な資料であるほど、個人で管理する責任も大きくなる。それを抱えきれなくなる恐れを感じたことがある。美術館の所蔵の実態は?

 (倉石)美術館には収集方針があり、それに沿うものを集める。いくつかの考えが混在している。例えば、国立新美術館国立民族学博物館でやった展示(参考:イメージの力―国立民族学博物館コレクションにさぐる|企画展|展覧会|国立新美術館 THE NATIONAL ART CENTER, TOKYOでは民具を美術館で展示した。博物館資料を美学的に捉え過ぎていたが、共同で事業を開催した点は評価できる。博物館資料を美学的価値で評価するのをやってもいいし、逆があってもいい。高橋さんのように、組み合わせて新しい価値を作り上げていくこと。

 一方、限られた予算を有効に使うため、博物館資料のようなアノニマスな価値を切り捨てることもある。例えば東京都写真美術館(英語ではTOKYO PHOTOGRAPHIC ART MUSEUM)は、あえて"ART"といれることで、写真家という一種の芸術家がつくったもの以外を切り捨てている。このことは、写真の重要な可能性をも切り捨てていると私は思う。

 また、リサーチベースのアートやアーカイブのドキュメント活用を行う現代アートがあることを思えば、美術館が資料としての写真の収拾活用も模索すべきだ。それには学芸員の関心と、写真の広い可能性を考える感性と知性が必要。

 北海道はそれが出来得る場所だと思う。現代の状況を批判し映し出すような歴史資料に注目すること。ファインアートはもはや、それにスポットを当てなければ延命できない局面にある。今問題なのは、いかに自堕落にアーカイブを使うアーティストを批判するか。

 また同時に重要なのは、高橋さんがおっしゃっていたように、アーカイブは簡単に移し替えられない資料であるべきだということ。基本的にはその場で生きる人々ととも伝承されていくものだ。移し替え可能なデジタルコンテンツとしてだけの利用価値ではない。データのように簡単に消去できないものとしての写真の重要性がますます強調されるべき。

 

(中村)小島一郎の写真でいうと、五戸や南部、津軽では気候が全然違う。作家のタイトルと写真に写っている風景が違う。それをどうすべきか?

(高橋)津軽と下北の写真があって、下北が「津軽」として世に出てしまう。それはある種の社会的構造を非対称性が象徴的に名指していることと言える。許されないこと。その土地に距離感がある人は十把一絡げに捉えるかもしれないが、地元の人は指摘すべきだし、差異の重要性を強調していかなければならない。

 五戸バオリは網目の高さが集落によって違うという。突き詰めると分かる差異があると知った時には大切にすることが大事。なかったことにしない。

(倉石)高橋さんが言われたように、キャプションの誤りをそのままにすることは政治的意味を持つ。日本の写真に大きな影響を与えたフェリーチェ・ベアトは、第二次アヘン戦争時、英仏対清朝の従軍記録をしている。英仏共同軍が円明園という中国の初めての西洋風建築のある離宮を破壊、放火し宝を盗んだことがあった。ベアトは頤和園(いわえん)という別の離宮の写真に円明園のキャプションを意図的に、印象的なものにするため付けた。より大きな出来事を表す言葉に小さな出来事が回収されていくようなことが起きている。

(中村)噴火湾周辺ではアイヌ集落によって着物の柄が違う。

 写真道場の河東さんも掛川と同じように長万部アイヌを撮っているが、「滅びゆく」などという誤った題を付けている。このようなことは改めていかなければならない。

(倉石)アイヌに対し「滅びゆく」というレッテルは明治頃から貼られている。「帝国日本と人類学」(坂野徹著、2005年)という本のなかにあるが、第一回の人類学会ですでに「滅びゆく」と言われ、今日まできている。そこには政治的、観光的など様々な意味合いがあり、日本人が貼ってきたレッテルとして歴史の厚みすらある。

 それは変えていくべきことだ。ネイティブアメリカン、ハワイアン、ニュージーランド、オーストラリアについてもそういうレッテルを貼られ、それに抵抗している。

 数年前「ワンヴォイス ハワイの心を歌にのせて」という映画を見た。ハワイアンが通う学校で毎年行われる合唱コンクールを題材にしたもので、あるモロカイ島出身の少女がハワイ語の歌詞で悩み、島に帰って受けた祭祀の印象を活かしていくのだが、そこで「ハワイアンの年配の人の発音を直してはいけない」と言われる。少女は復興の最中で教育されているからハワイ語を勉強できている。正しいハワイ語とは何か、という定義も難しいのだが、ハワイアンの自覚がない時代の教育を受けたおばあさん世代より孫の方がハワイ語を喋れたりする。そういう残酷なシーンがある。

 同じようなことがアイヌでも起こり得る。それを復興として捉えるべき。「滅びゆく」とか言ってる場合じゃない。

 (中村)北海道ではしばしば「最果て」と言われたり、長万部も何もないとか言われてレッテルを貼られるけど、そうかな?とも思う。

 

 

 

 

 ・質疑応答

 

 Q、旭川で町を記録する写真活動をしている。結成して50年になる。二回写真集を出した。変化しそうな場所を撮影し共同制作をやっている。最近、共同制作の中で、会員に価値観を押し付けているように感じることもある。できたときには充実感もあるが。質問は、町の記録という観点から今デジタル化した記録について心に留めるべきことはあるか?

 A、(倉石)デジタル写真のデータを保存する方式が、どれがベストかわからない。例えば映画はほとんどデジタルになってデーターを上映しているが、多くがフィルムにも焼いているようだ。モノとして保存した方が長持ちする可能性が高い。これまでの経験からすると、やはり銀塩のプリントで焼くのが長持ちするのではないか。

 

 Q、伊達から来た。写真道場の活動について知ることができるまとまった資料はあるか?

 A、(中村)文献としては町史。あとはカメラ雑誌の記事を調査している。地道に拾っていくしかない。プレゼンテーションの際にお話ししたことが現状のすべて。

  

 Q、町内から来た。地元のアイヌの資料は開拓記念館(現・北海道博物館)ができたときにそっちに行ってしまったり、文書は道立文書館ができたときに赤レンガに行ってしまったりした。近くに資料がない。町史ができて30年以上経っている。その時編集で使ったときの写真もどこかに保管されているはず。写真が地元にどのように保存されていくのか、今後について訊きたい。町民で考えていかなければならないと思う。

 A、(中村)今は、個人同士のやりとりで残っている写真を展示した段階。今後はできれば町民で問題を共有して、写真を残していけるように、町民が自由に見られるようにしていきたい。

 

Q、他の写真道場のメンバーの写真は?

A、(中村)今後もっとみつかるかもしれない。古川晧一さんという早い時期から入選、入賞されていた方の遺族とは、今回の展示がきっかけでお会いできたが、2年前に処分したと言われた。澤さんの遺品から河東さんの写真も見つかっている。

 

 シンポジウムは以上。

 

 

 

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 (まんべくん

 

 

 

2.感想 

 

 私の感想として。

 

 基調講演1で、まず小島の写真について思うのは、やはり丁寧な整理と研究がその再評価につながったのだろうということだ。長万部写真道場の写真に関してもこれから更にそのような作業が必要であろうことは言うまでもない。また、フィルムを寄託としたことの意味は大きいと思った。その研究対象は実際には誰のものなのか。どこにあるべきなのか。私たちが人間である以上、倫理を抜きにした研究は不可能だ。これは最近のアイヌの遺骨返還問題にも通じると思う。

 小島の写真と写真道場の写真に、また別の開拓地の写真にも、それぞれ共通する被写体や状況が撮られていることも興味深い。写真映えする被写体を選んだ結果なのか。或いは、戦後のある時期を象徴的に示すモチーフを選んだ結果なのか。

 講演で挙げられた例は写真道場の作品と、同じ時期であったり近い環境であったりと、様々な軸で比較して見られるもので、今回の展示をより多面的に見るのに役立つ内容だった。

 

 基調講演2では、掛川のある写真集にまつわる様々なトピックを深く知ることができた。ひとつの写真集から、これだけの内容を引き出せることに素朴に感動した。長万部写真道場の作品群にもそのような可能性があると思うとわくわくする。

 沖縄村の写真のあとに付いている長万部アイヌの司馬夫妻についても興味深かった。今日ではありえない言いがかりに過ぎないのだが、アイヌを「滅びゆく」ものとする言説がまだ根強かった当時、掛川もまたその延長線上で司馬夫妻や長万部アイヌを撮った(撮らざるを得なかった?)であろう。しかし、そういう解釈だけが写真から導き出されるわけではない(それこそが写真の面白さだろう)。民族間の政治的な権利云々と一部で関連しつつもそれだけではない複雑な問題がそこにある、ということの指摘として私は講演を受けとった。私たちが忘れがちなのは、文化はそもそも雑種的な要素を含んで変化、発展していくということだ。それに加えて考えなければならないのは、「天皇と対峙する姿」や「文化的混交を生き抜く姿」は、確かに世界的なのっぴきならない事態の影響下で生まれてしまった。それらを正視するやり方を、たぶん和人の私たちはまだ身に着けられないでいる。その中で複雑な状況を丁寧に腑分けした今回の講演のような営みが、真の文化の発見につながっていくのではないかと感じた。

 

 シンポジウムで面白かったのは、博物館資料と美術館の所蔵品の活用について。私自身が博物館や図書館の資料を参考に作品をつくるからなおさらだ。美術館でも博物館でも、美学的価値とか資料的価値だけで割り切れないような展示が近年随分増えてきたと感じる。

 「自堕落にアーカイブを使うアーティスト」が批判されていたが、これは資料の価値の可能性を自分に都合の良い形でしか捉えられないアーティストのことかと私は思った。資料の価値の開かれに敏感になることは、もちろん今回のシンポジウムの意義にも通じよう。地方で数多の芸術祭が開かれるようなって久しいが、それらを批判的に考える上でも参考になる知見だと思う。自戒も込めて。

 ハワイアンの世代間の教育の違いについても興味深かった。まさにアイヌ語でももう起こっている事態なのかもしれない。

 

 そもそも地方では財政難で資料の満足な保存すら覚束ないのではないだろうか。今回の写真展での来場者の反応を見れば、地域の資料を地道に保存し地域で活用していくことがどれだけかけがえのない価値なのかよくわかる。それは私たちが生きるための基礎、とでも言えばいいのだろうか。歴史の証人として写真があることで自分の文化の存在を確認することができる。それは人間の尊厳の一部をなす(もちろん写真の価値がそれだけではないことこそこのシンポジウムの意味だっただろうが)。大げさに言えば、記録と保存の軽視は国会で問題になっている公文書改ざんの問題ともつながるようにも思える。これは政治的な重大問題であるだけでなく、文化の破壊、人間の否定でもある。

 

 文化は何より地道な長いスパンの研究に裏打ちされてこそ価値が出るものだということを、このシンポジウムでは再確認できた。よく町おこしなどと言いながら安易に芸術祭を開いて、やりがい搾取をしながら他所から来たものを有難がり、一時の快楽のために消費するようなことは疲弊を招くだけで文化の発展にはたぶん寄与しない。もちろん文化的交流は必要だが、それにはベースとしてのアーカイブが必須であろう。

 

 いっそのこと、長万部写真道場のアーカイブと研究発表をベースとして北海道の写真を研究する「北海道写真美術博物館」なるものを作ってしまってはどうだろうか、ともちらっと思ったが、その提案は荒唐無稽だとしても、そんな夢想をしてしまうほどには北海道の写真の可能性を感じた展覧会とシンポジウムであった。

 

 

 

 (終)

 

2018.4.4. 感想を一部削除、加筆

2018.4.22. 一部指摘があり人名や明らかに事実と異なる内容を訂正、語の言い換え、内容の補足