こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

「長万部写真道場 再考」⑤ シンポジウム③

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 (長万部の海)

 

 の続き。

 

 

 

 1.パネルディスカッション

 

  2018.2.25.③

 

 12時55分頃から第2部。中村、倉石、高橋の三名によるパネルディスカッションが行われた。題は「北海道における写真記録のこれから」。以下要約。

 

 

 

 (中村)まず講演の主旨の説明を。長万部写真道場の人々と同時期に道内では、掛川源一郎や東川町の飛騨野数右衛門、共和町の前川茂利、夕張市の安藤文雄ら、アマチュアカメラマンが活躍していた。また、明治時代に北海道の「開拓」を記録した写真もある。北海道は写真に撮られ続けてきた土地だ。長万部写真道場の写真は郷土資料として貴重だが、他の写真家についてなど周辺も知ることで、さらに価値が広がるのではないかという狙いがある。

 では最初に、展示についてお二人から感想を伺いたい。

 

 (高橋)驚いたのは、個人名がついていない「写真道場」という集団で撮る写真としての価値が見出されていたこと。一人の作家の限界を超えて集団で町を記録していく動きの具体的な例を目にして新鮮だった。今回の展示の写真選びもあっただろうが、町の漁業、酪農、温泉、国鉄など、あらゆる風俗産業がまんべんなく記録されていて「町の今を記録する」ことに力を注いでいたことが伝わってくる。町の営みの中に写真があった。それを中村さんが見出したこともまた素晴らしい。

 

(倉石)台紙の赤い「長万部写真道場」の字がとても目を引く。カメラクラブが名前を変えた「道場」とは切磋琢磨して剣道のように研鑽する場であることを示す。名前は重要だ。

 近代の芸術は作品を個人の表現だとし、その価値を作家性として一義的に考える。それに対して、60年代半ば以降、中央で活動していた写真家の間では先鋭的な問いとして作品や作者への疑義が露出してくる。具体的には、東松照明森山大道中平卓馬らがアノニマスの価値を語っていた。個人の表現や作品、一人の表現主体としての写真家への疑問は、写真家自身よりも、映し出す対象、すなわち風景や人々、場所の方が大事という考え方につながる。これは示唆的だ。

 50年代に地方で地道に集団制作を展開した写真道場の集団性や匿名性の重要さを感じる一方、60年代の中央の作家との間に温度差を感じた。それらの共通性と差異についても考えたい。少なくとも写真道場の表現は、作品や作者について振り返り、「自己」に内省的になることの価値について考えさえてくれるとはいえる。

 それは中村さんの写真道場の作家たちへの共感と、適切な写真のセレクトに加え、素晴らしい丁寧な解説があったからこそ。自己表現としての芸術写真は「写真がすべて物語る」とされ、被写体の解説がしばしば軽視される。適切な解説の真摯さは見る人に伝わる。

 

 (中村)私が解説を書いた。山の稜線でだいたいの場所を同定したりはできたが、ほぼ平成生まれなので分からないことが多く、町史や長万部の歴史写真集等々を調べた。意外と60代の方でも分からないことがあった。

 

 

 

・ここで長万部写真道場の元会員だった守田さんと、写真道場主宰者の一人である澤博氏の娘で今展の写真を保管していた澤薫さんから一言ずつコメントがあった。

 

 

 

 (守田さん)写真道場の活動時期は戦後まもなくから昭和40年くらいと、私が入って写真道場に改称するまで二期に分けられる。二期の間は休止していた。生活を撮ることを重視したグループ活動だった。道場だったので、河東が師範代、澤が指南役、というようにちゃんと位があり、小学生は級だった。

 (中村)新たな事実が!

 (澤薫さん)写真は「負の遺産」とでもいうようなものだったが、埃とカビ臭い写真道場に一筋の光明が差した。感謝申し上げます。

 (中村)本当にこの二人のおかげで写真展ができた。見に来てくれた町の人もよく残ってたなと仰る方が多い。

 (澤薫さん)みなさんの記憶の中に残ってくれたら幸いです。

 (中村)町史は普通、建物の写真やかしこまった集合写真が多い。長万部町史では写真道場の写真がよく使われている。町の歴史への写真道場による影響や、写真道場というキーワードで町の歴史がよくわかった。

 

 ・続き。

 

 (中村)最初は掛川について調べていた。そこから長万部写真道場を調べるようになった。

 質問。道外に道内の写真の歴史はどのように捉えられているのか。例えば「沖縄プリズム」展(参考:展覧会情報沖縄・プリズム 1872-2008では掛川の写真が「沖縄村」とだけ展示されていたが、(高橋さんの講演にあった「小島一郎の写真で南部が津軽と書かれた」例を受けて)長万部町のことなども併せて提示されていたらよかったなと思った、それらについて。

 

 (倉石)「沖縄村」については私も同意する。

 掛川への関心としては、講演でも触れた大日方欣一さん(フォトアーキビスト)が函館の熊谷孝太郎など地方の写真家の研究をしている。いわゆるローカルに徹し生涯を全うした作家への関心はここ20年くらいで研究者間で共有されてきている。掛川は写真集「genー掛川源一郎が見た戦後北海道」(2004年出版、北海道新聞社)で再評価された。

 沖縄のことでいうと、私が関わった写真集「沖縄写真家シリーズ」(未来社)の中で、アメリカによる占領時代から戦後の沖縄を撮っていた山田實がいる(参考:故郷は戦場だった - 山田實 写真 / 仲里効 タイラジュン 解説|未來社)。この人には中央との関わり方など掛川と似た面もある。中央から来た人の身請け人にもなっている。そこには「中央ー地方」という非対称性もあるが、ひとつの交流のパターンを見出すことができる。ローカリティに徹する意味の再評価の中で、北海道にはアーカイブされるべき人がまだまだいると思われる。

 逆に中村さんに質問したい。自分が生まれる以前の写真にアプローチするために地形とか空気から考えるという話があった。土地の形は大災害がなければ形をとどめている。夾雑物を捨てて残るのは地形と気象。一枚の写真を見ていくときの植生、地形等の意味など、どういうアプローチをしているのか詳しくお聴きしたい。

 (中村)例えば、掛川の「大地に生きる~」の平里地区や静狩湿原の開拓写真に写っている泥炭地。青森以北では植物が腐らず繊維が残り、一年に一ミリ以下しか地層が積みあがらない。それが湿原になる。それを知ったうえで見ると、平里では泥炭地を切って水を海に流し、腐らず残った根株を手で掘らなければならない苦しさや、農耕の技術が進歩していないかったこともあるが、気候に合わない植物を実らせようと頑張っていたことを写真から見て取ることもできる。

 (倉石)高橋さんにもお訊きしたい。開拓写真を見るポイントは?

 (高橋)やはり他の開拓写真と比較して見ること。開拓地の状況を、作物や道具、服装で比較しながら見る。

 ヌラ平開拓の場所は地図に載っていなかった地名だった。調査中、山並みで場所の確信が持てた。地形は基準点になりえると思う。

(倉石)私も、ある時期から風景は現場に行かないと分からないことが多いと思うようになり、必ずその場所に出かけて考えるようになった。同業者は必ずしもそうではない。逆に、実物偏重と言われたこともある。

 実際に現場に行って見えていなかったことが見えるのは「写真と実景のズレ」や「実景によって写真が批判される」というよりは、実景の情報を俯瞰的に反芻しながら解釈しないと風景写真の正当な価値や魅力を伝えることはできないのではないか、と思うようになった。

 別の参照項、例えば同時代の言葉による文献や、その場所を歴史的に描いてきた歌枕や、フィクションの描かれ方等々を、複合的に組み合わせることによって作品を読み解くことが必要。迂回路かもしれないが、言葉と実景と写真という違う位相にあるものの組み合わせで新しいテキストを生み出せないかと考えている。自然を読み取ることももちろん一つの参照項になる。

 (中村)長万部は天気予報が当たらない。漁師が山にかかる雲で天気予報する延長で写真を見るような。

(倉石)そういう経験から得た知恵は私には失われているものだ。

(中村)夕張に(倉石と)行ったときに天気予報が当たって「インディアンの娘」だと言われたことがある(笑)。

(倉石)自分が言ったことは覚えていない(笑)。夕張でも、やはり実際の風景、谷の深さやズリ山の形や傾斜は立体的に見ないとわからなかった。

 (中村)高橋さんへの質問。今回展示をやったことで新しい写真が発見されそうな気配がある。郷土写真の再発見の過程で、収集、展示、アーカイブする時、物それ自体をどうとらえているか?

 (高橋)小島一郎の写真は美術館が所蔵しているが、六ケ所の開拓写真は庄内の農協にある。本当は被写体の近くにあるのが写真の幸せだと思うが、関心のある人がいないと管理が難しい。失われる恐れがある。資料館か、美術館か、という問題もある。美学的な視点からだけではなく、風景と被写体との関わりの中で重要性を持ってくる写真の価値がある。そういう写真の存在の仕方があってもいいと思ってる。

 (中村)貴重な資料であるほど、個人で管理する責任も大きくなる。それを抱えきれなくなる恐れを感じたことがある。美術館の所蔵の実態は?

 (倉石)美術館には収集方針があり、それに沿うものを集める。いくつかの考えが混在している。例えば、国立新美術館国立民族学博物館でやった展示(参考:イメージの力―国立民族学博物館コレクションにさぐる|企画展|展覧会|国立新美術館 THE NATIONAL ART CENTER, TOKYOでは民具を美術館で展示した。博物館資料を美学的に捉え過ぎていたが、共同で事業を開催した点は評価できる。博物館資料を美学的価値で評価するのをやってもいいし、逆があってもいい。高橋さんのように、組み合わせて新しい価値を作り上げていくこと。

 一方、限られた予算を有効に使うため、博物館資料のようなアノニマスな価値を切り捨てることもある。例えば東京都写真美術館(英語ではTOKYO PHOTOGRAPHIC ART MUSEUM)は、あえて"ART"といれることで、写真家という一種の芸術家がつくったもの以外を切り捨てている。このことは、写真の重要な可能性をも切り捨てていると私は思う。

 また、リサーチベースのアートやアーカイブのドキュメント活用を行う現代アートがあることを思えば、美術館が資料としての写真の収拾活用も模索すべきだ。それには学芸員の関心と、写真の広い可能性を考える感性と知性が必要。

 北海道はそれが出来得る場所だと思う。現代の状況を批判し映し出すような歴史資料に注目すること。ファインアートはもはや、それにスポットを当てなければ延命できない局面にある。今問題なのは、いかに自堕落にアーカイブを使うアーティストを批判するか。

 また同時に重要なのは、高橋さんがおっしゃっていたように、アーカイブは簡単に移し替えられない資料であるべきだということ。基本的にはその場で生きる人々ととも伝承されていくものだ。移し替え可能なデジタルコンテンツとしてだけの利用価値ではない。データのように簡単に消去できないものとしての写真の重要性がますます強調されるべき。

 

(中村)小島一郎の写真でいうと、五戸や南部、津軽では気候が全然違う。作家のタイトルと写真に写っている風景が違う。それをどうすべきか?

(高橋)津軽と下北の写真があって、下北が「津軽」として世に出てしまう。それはある種の社会的構造を非対称性が象徴的に名指していることと言える。許されないこと。その土地に距離感がある人は十把一絡げに捉えるかもしれないが、地元の人は指摘すべきだし、差異の重要性を強調していかなければならない。

 五戸バオリは網目の高さが集落によって違うという。突き詰めると分かる差異があると知った時には大切にすることが大事。なかったことにしない。

(倉石)高橋さんが言われたように、キャプションの誤りをそのままにすることは政治的意味を持つ。日本の写真に大きな影響を与えたフェリーチェ・ベアトは、第二次アヘン戦争時、英仏対清朝の従軍記録をしている。英仏共同軍が円明園という中国の初めての西洋風建築のある離宮を破壊、放火し宝を盗んだことがあった。ベアトは頤和園(いわえん)という別の離宮の写真に円明園のキャプションを意図的に、印象的なものにするため付けた。より大きな出来事を表す言葉に小さな出来事が回収されていくようなことが起きている。

(中村)噴火湾周辺ではアイヌ集落によって着物の柄が違う。

 写真道場の河東さんも掛川と同じように長万部アイヌを撮っているが、「滅びゆく」などという誤った題を付けている。このようなことは改めていかなければならない。

(倉石)アイヌに対し「滅びゆく」というレッテルは明治頃から貼られている。「帝国日本と人類学」(坂野徹著、2005年)という本のなかにあるが、第一回の人類学会ですでに「滅びゆく」と言われ、今日まできている。そこには政治的、観光的など様々な意味合いがあり、日本人が貼ってきたレッテルとして歴史の厚みすらある。

 それは変えていくべきことだ。ネイティブアメリカン、ハワイアン、ニュージーランド、オーストラリアについてもそういうレッテルを貼られ、それに抵抗している。

 数年前「ワンヴォイス ハワイの心を歌にのせて」という映画を見た。ハワイアンが通う学校で毎年行われる合唱コンクールを題材にしたもので、あるモロカイ島出身の少女がハワイ語の歌詞で悩み、島に帰って受けた祭祀の印象を活かしていくのだが、そこで「ハワイアンの年配の人の発音を直してはいけない」と言われる。少女は復興の最中で教育されているからハワイ語を勉強できている。正しいハワイ語とは何か、という定義も難しいのだが、ハワイアンの自覚がない時代の教育を受けたおばあさん世代より孫の方がハワイ語を喋れたりする。そういう残酷なシーンがある。

 同じようなことがアイヌでも起こり得る。それを復興として捉えるべき。「滅びゆく」とか言ってる場合じゃない。

 (中村)北海道ではしばしば「最果て」と言われたり、長万部も何もないとか言われてレッテルを貼られるけど、そうかな?とも思う。

 

 

 

 

 ・質疑応答

 

 Q、旭川で町を記録する写真活動をしている。結成して50年になる。二回写真集を出した。変化しそうな場所を撮影し共同制作をやっている。最近、共同制作の中で、会員に価値観を押し付けているように感じることもある。できたときには充実感もあるが。質問は、町の記録という観点から今デジタル化した記録について心に留めるべきことはあるか?

 A、(倉石)デジタル写真のデータを保存する方式が、どれがベストかわからない。例えば映画はほとんどデジタルになってデーターを上映しているが、多くがフィルムにも焼いているようだ。モノとして保存した方が長持ちする可能性が高い。これまでの経験からすると、やはり銀塩のプリントで焼くのが長持ちするのではないか。

 

 Q、伊達から来た。写真道場の活動について知ることができるまとまった資料はあるか?

 A、(中村)文献としては町史。あとはカメラ雑誌の記事を調査している。地道に拾っていくしかない。プレゼンテーションの際にお話ししたことが現状のすべて。

  

 Q、町内から来た。地元のアイヌの資料は開拓記念館(現・北海道博物館)ができたときにそっちに行ってしまったり、文書は道立文書館ができたときに赤レンガに行ってしまったりした。近くに資料がない。町史ができて30年以上経っている。その時編集で使ったときの写真もどこかに保管されているはず。写真が地元にどのように保存されていくのか、今後について訊きたい。町民で考えていかなければならないと思う。

 A、(中村)今は、個人同士のやりとりで残っている写真を展示した段階。今後はできれば町民で問題を共有して、写真を残していけるように、町民が自由に見られるようにしていきたい。

 

Q、他の写真道場のメンバーの写真は?

A、(中村)今後もっとみつかるかもしれない。古川晧一さんという早い時期から入選、入賞されていた方の遺族とは、今回の展示がきっかけでお会いできたが、2年前に処分したと言われた。澤さんの遺品から河東さんの写真も見つかっている。

 

 シンポジウムは以上。

 

 

 

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 (まんべくん

 

 

 

2.感想 

 

 私の感想として。

 

 基調講演1で、まず小島の写真について思うのは、やはり丁寧な整理と研究がその再評価につながったのだろうということだ。長万部写真道場の写真に関してもこれから更にそのような作業が必要であろうことは言うまでもない。また、フィルムを寄託としたことの意味は大きいと思った。その研究対象は実際には誰のものなのか。どこにあるべきなのか。私たちが人間である以上、倫理を抜きにした研究は不可能だ。これは最近のアイヌの遺骨返還問題にも通じると思う。

 小島の写真と写真道場の写真に、また別の開拓地の写真にも、それぞれ共通する被写体や状況が撮られていることも興味深い。写真映えする被写体を選んだ結果なのか。或いは、戦後のある時期を象徴的に示すモチーフを選んだ結果なのか。

 講演で挙げられた例は写真道場の作品と、同じ時期であったり近い環境であったりと、様々な軸で比較して見られるもので、今回の展示をより多面的に見るのに役立つ内容だった。

 

 基調講演2では、掛川のある写真集にまつわる様々なトピックを深く知ることができた。ひとつの写真集から、これだけの内容を引き出せることに素朴に感動した。長万部写真道場の作品群にもそのような可能性があると思うとわくわくする。

 沖縄村の写真のあとに付いている長万部アイヌの司馬夫妻についても興味深かった。今日ではありえない言いがかりに過ぎないのだが、アイヌを「滅びゆく」ものとする言説がまだ根強かった当時、掛川もまたその延長線上で司馬夫妻や長万部アイヌを撮った(撮らざるを得なかった?)であろう。しかし、そういう解釈だけが写真から導き出されるわけではない(それこそが写真の面白さだろう)。民族間の政治的な権利云々と一部で関連しつつもそれだけではない複雑な問題がそこにある、ということの指摘として私は講演を受けとった。私たちが忘れがちなのは、文化はそもそも雑種的な要素を含んで変化、発展していくということだ。それに加えて考えなければならないのは、「天皇と対峙する姿」や「文化的混交を生き抜く姿」は、確かに世界的なのっぴきならない事態の影響下で生まれてしまった。それらを正視するやり方を、たぶん和人の私たちはまだ身に着けられないでいる。その中で複雑な状況を丁寧に腑分けした今回の講演のような営みが、真の文化の発見につながっていくのではないかと感じた。

 

 シンポジウムで面白かったのは、博物館資料と美術館の所蔵品の活用について。私自身が博物館や図書館の資料を参考に作品をつくるからなおさらだ。美術館でも博物館でも、美学的価値とか資料的価値だけで割り切れないような展示が近年随分増えてきたと感じる。

 「自堕落にアーカイブを使うアーティスト」が批判されていたが、これは資料の価値の可能性を自分に都合の良い形でしか捉えられないアーティストのことかと私は思った。資料の価値の開かれに敏感になることは、もちろん今回のシンポジウムの意義にも通じよう。地方で数多の芸術祭が開かれるようなって久しいが、それらを批判的に考える上でも参考になる知見だと思う。自戒も込めて。

 ハワイアンの世代間の教育の違いについても興味深かった。まさにアイヌ語でももう起こっている事態なのかもしれない。

 

 そもそも地方では財政難で資料の満足な保存すら覚束ないのではないだろうか。今回の写真展での来場者の反応を見れば、地域の資料を地道に保存し地域で活用していくことがどれだけかけがえのない価値なのかよくわかる。それは私たちが生きるための基礎、とでも言えばいいのだろうか。歴史の証人として写真があることで自分の文化の存在を確認することができる。それは人間の尊厳の一部をなす(もちろん写真の価値がそれだけではないことこそこのシンポジウムの意味だっただろうが)。大げさに言えば、記録と保存の軽視は国会で問題になっている公文書改ざんの問題ともつながるようにも思える。これは政治的な重大問題であるだけでなく、文化の破壊、人間の否定でもある。

 

 文化は何より地道な長いスパンの研究に裏打ちされてこそ価値が出るものだということを、このシンポジウムでは再確認できた。よく町おこしなどと言いながら安易に芸術祭を開いて、やりがい搾取をしながら他所から来たものを有難がり、一時の快楽のために消費するようなことは疲弊を招くだけで文化の発展にはたぶん寄与しない。もちろん文化的交流は必要だが、それにはベースとしてのアーカイブが必須であろう。

 

 いっそのこと、長万部写真道場のアーカイブと研究発表をベースとして北海道の写真を研究する「北海道写真美術博物館」なるものを作ってしまってはどうだろうか、ともちらっと思ったが、その提案は荒唐無稽だとしても、そんな夢想をしてしまうほどには北海道の写真の可能性を感じた展覧会とシンポジウムであった。

 

 

 

 (終)

 

2018.4.4. 感想を一部削除、加筆

2018.4.22. 一部指摘があり人名や明らかに事実と異なる内容を訂正、語の言い換え、内容の補足

 

 

 

「長万部写真道場 再考」④ シンポジウム②

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 (長万部の海沿い)

 

 の続き。長万部でのシンポジウムについて。

 

 

 

 1.基調講演2

 

 2018.2.25. ②

 

 基調講演2は、明治大学理工学研究科総合芸術系教授の倉石信乃氏による「『掛川源一郎写真集 大地に生きるー北海道の沖縄村ー』を読む」だ。

 表題にある掛川源一郎(1913~2007)の写真集の特徴や現代的意義についての講演だった。以下要約。

 

 

 

 写真集「掛川源一郎写真集 大地に生きるー北海道の沖縄村ー」(1980年、第一法規出版)は長万部カメラクラブ(当時の名称で、長万部写真道場の改称前)が掛川を案内したことがきっかけで撮影された。沖縄から大阪に移り住み、戦災で焼けだされたことで長万部の平里地区の開拓に従事することとなった仲宗根一家の約20年間の記録だ。

 

 まず、掛川自身や写真集の背景について。

 

 1950年代に土門拳が提唱した「リアリズム写真運動」は、写真を芸術的に撮ろうとするのではなく、ありのまま、ストレートに、社会に於いてどのような暮らしぶりをしているか(させられているか)を撮影しようとした。「カメラとモチーフの直結」などと言われ、掛川もその影響下にある。

 掛川の写真の特徴としては、まず科学者や観察者の目を持っていたことが挙げられる。大日方欣一氏(フォトアーキビスト)の研究によれば、掛川は戦前期の1930年代、園芸雑誌の出版社で当時最先端の植物をクローズアップした科学写真を撮っていた。

 また掛川伊達市で高校の生物の教師をしながら、戦前戦後を通して北海道の噴火湾沿岸を主に撮影している。その中で長万部写真道場の写真家たちとも交流していく。例えば、鳥取植田正治秩父の清水武甲のように、その土地に根差して芸術を追求していった写真家のグループに掛川も位置づけられる。

 

 この写真集においては1950年代あるいは昭和30年代のイメージが中核となっている。ちょうどこの時期は、芸術家がサークルのように集団で活動することが注目された頃である。その点では、同時期に集団で地元を記録していくことの重要性に気が付き、いわば一つの世界を作り上げていた長万部写真道場は重要だ。

 また、写真集の序文は緑川洋一が書いている。緑川は掛川も所属していた二科会のメンバーだ。もう一人、西銘順治も文章を寄せている。保守系の政治家で沖縄県知事等を歴任した西銘は、必ずしも掛川の政治観と一致していたわけではないかもしれない。ただ、1980年代ごろまでは写真集ではこのような複雑な権威付けがしばしば行われたことは、頭に留めておいてもよい。

 

 ある写真を、「開拓写真」や「北海道写真」と呼ぶことがある。「開拓写真」は、開拓を自明のものと見做すことを内在させた言い方だ。アイヌにとっては開拓は侵略であり植民地化である。また多くの移民や開拓者にとっては過酷な条件とセットの恵まれない移住や入植であった。もちろん掛川が撮影した仲宗根一家や、高橋さんの講演でも触れられていたような戦後の緊急開拓でも同様だっただろう。これらアイヌや移民の憤り、苦しみなどを、開拓写真を考える上でいつも思い起こす。

 では、開拓とは何か。民俗学者宮本常一は著作「開拓の歴史」で、次のように定義している。「開拓とは、木を伐り、草をはらい、土をおこして、作物をつくる土地を準備し、家を建て、生活をしていくことである。それは新たに自分の意志と工夫と努力によって、生きていく条件をととのえていくことであるといってもいい。人は生きていくためにはまず食物を必要とする。食物を手にいれるということは、いつの世にあっても必ずしも容易なことではない」。

 また宮本は同じ著書で、第二次大戦後の日本が鎖国当時のように四つの島での生活を余儀なくされ、開拓可能地への入植が試みられたことで、明治初年と戦後の開拓とが似た様相を呈していることを指摘している。これに沿って考えるならば、田本研造や武林盛一ら明治の北海道開拓を撮影した写真家と、戦後の開拓を撮影した前川茂利や掛川の写真がどこかで響き合っているようにも思える。

 

 ここから、掛川の写真集の内容について。

 

 北海道への入植はしばしば被災者の救済事業として行われた。1889(明治22)年の吉野川の氾濫により集団移住した結果、新十津川村ができたように、濃尾地震関東大震災、太平洋戦争の震災、戦災で北海道へ移民した人々がいる。

 掛川が撮影した仲宗根一家も大阪から焼け出された沖縄移民だ。沖縄戦で帰郷の望みが絶たれ、秋田で空襲に遭いながら、移動中に終戦になった。長万部に着いたのは1945年8月18日。泥炭地を耕しながら、山で薪を拾うなどして食いつないでいく日々だった。

 最初に撮影したのは1956(昭和31)年。以後1980(昭和55)年までの記録が写真集にまとめられた。

 掛川は初めて訪れた荒涼とした開拓地に感銘したという旨の言葉を残している。これは写真家の業のようなもので、生きていくのに困難な土地はフォトジェニックな強い写真ができる。開拓地は焼け跡の残骸のようだったとも語っている。戦後とは生活のための闘いの日々だっただろう。リワイルディング(再野生化)という言葉がある。欧米では積極的に自然に介入していくが、日本におけるリワイルディングでは成すがままに任せる。掛川が焼け跡と言った平里を3年ほど前に訪れた時にはそうなりつつあった。

 

 仲宗根一家の丹念な記録からは、掛川の科学者のような冷ややかな峻厳な目と、あたたかなヒューマニズムの目との折り合いを探っていることが伺える。

 子供の写真がある。これはある種のパターン。戦後の新たな社会で自由に振る舞うことやリスタートの寓意、可能性の擬人像として、子供が盛んに撮られた時期がある。例えば、戦後最初に復刊した写真雑誌『カメラ』(1946年1月号)に掲載された土門拳「真生子」がそれにあたる。

 また1950年代は「労働」というテーマが重要だった。これは1930年代の労働運動を撮ったプロレタリア写真のリバイバル長万部写真道場の写真でも労働風景が撮られている。

 一家の長である仲宗根さんが年を重ね、子、孫ができた姿を撮っている。叙事詩的、物語的な構成の写真集であるといえる。

 

 ここから、写真集の第二部ともいえるアイヌ集落の写真について。

 

 この写真集には沖縄移民の写真のあと、旭浜地区のアイヌ集落の写真が付録のようについている。

 写真集のクライマックスでは長万部アイヌの長である司馬力弥翁と妻ハル媼が撮られている。アイヌの文化的継承者であり、日本にとっては別の民族の長でもあり、加えて撮影の協力者でもあった二人の生き方に掛川は注目していたのだ。司馬夫妻は仲宗根一家と対照的でありながらイメージの強さでは並んでいるといえる。写真集の構成としては「北海道の沖縄村」だけにした方がよかったはずだ。しかしそれを外さなかった掛川は、アイヌのイメージの最後の輝きが長万部を記録する上で重要だと考えていただろう。

 長万部町史に、昭和天皇の全国巡幸の最後、北海道巡幸の途中の1954(昭和29)年8月9日に長万部駅で最前列で司馬夫妻が出迎えた際の写真がある。この写真を見たとき思い起こしたのは開拓使仮学校での農業実習の写真だ。伝統衣装と洋装のアイヌが混ざって写っているもので、昭憲皇太后が視察に訪れた際アイヌが歌舞音曲を披露したという話が残っている。(参考:北海道大学のサイト開拓使東京第3号園留学アイヌ人 其2司馬夫妻は天皇を歓待する立ち位置であり、別民族の長である天皇に矜持や誇りを示してもいる。複雑な陰影をもった写真だと感じた。

 写真集には含まれていないが、掛川の「酋長未亡人の死」にも考えされられた。司馬ハルの葬儀を撮影したもので、アイヌの伝統的な墓標を用い土葬であったのと同時に法華宗の葬式でもあった。

 また、長万部アイヌも関わった観光客向けの熊送りの儀式が、本来の冬の終わりではなく夏に行われていたことが昔の絵葉書から分かるという(様似町教育委員会の大野徹人氏の指摘による)。

(参考、長万部アイヌが運営していたアイヌ文化を紹介する施設エカシケンル:函館市中央図書館デジタル資料館(参考、熊送りの様子:函館市中央図書館デジタル資料館

 

 これらをアイヌの観光化や「滅びゆく民族」という切り口であまりに簡単に論じることは、余儀ない事態、あるいは途方もない事態として起こっている文化的混交をレッテル貼りで単純化することでしかない。「酋長未亡人の死」で掛川は文化的混交を生き抜いた司馬ハルを敬意をもって確かな観察眼で捉えていた。私たちが考えるべきことは、文化的混交から不純物を取り除くように「純粋な日本」や「純粋なアイヌ」という境界線を引き、分けてしまうことではなく、混交の意義を再検討し、境界の領域を活性化することだろう。その先に見えてくるものは、北海道の様々な場所で同時多発的に行われるべきアイヌ文化の復興であろうと思う。

 そのようなことを掛川の写真や、長万部写真道場の写真は教えているのではないか。

 

 講演はだいたい以上のような内容だった。

 

 2.プレゼンテーション 

 

 長万部写真道場研究所主宰の中村絵美さんによるプレゼンテーション、「長万部写真道場 調査報告」があった。中村さんは長万部町出身の美術家。調査研究の成果として年表などを見せながら写真道場の活動の概要を紹介していた。以下要約。

 

 

 

 写真道場については町史に記録が出ている。1951(昭和26)年に「長万部カメラ倶楽部」として発足。初代会長は片山政五郎 氏。のち「長万部カメラクラブ」「長万部写真クラブ」に改称した。このころの会長は産婦人科医だった河東篤 氏。

 

 澤博氏の遺品である写真は2015年から調査と整理を始めた。今回展示したものは1976(昭和51)年の町の文化祭で発表された写真ではないかと予想している。澤らと掛川はほとんど同時期に写真雑誌に入選するなどしていた。交流が深い。掛川と河東らが同時に同じモチーフを撮ったと思われる写真も何枚もある。

 

 1951(昭和33)年、噴火湾のカメラクラブが集まり「道南写真作家展」が開催され、写真道場からも出品した。伊達、浦河、室蘭にもカメラグループがあった。これは札幌や旭川にも巡回した。全国全道ににカメラクラブがあった。

 同年には道南の年長世代の作家たちが北海道作家集団も結成し、生活派と自称した。このような写真家のネットワークについても調査している。

 

 

 だいたい以上のようなものだった。

 

 お昼の休憩時、名物のかにめしをいただいた。

 

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 へ続く。

 

「長万部写真道場 再考」③ シンポジウム①

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  (まんべくん

 

 の続き。長万部の写真展の記録です。

 

 

 

 

 1.シンポジウムへ 

 

 

 2018.2.25.①

 

 明くる25日、写真展会場のすぐ横のホールで開かれたシンポジウムを10時から聴いた。

 

 まず、長万部町長の木幡正志氏の挨拶があった。

 以前にも写真道場の元メンバーから展示したいという話があったのだが、肖像権や専門の人員がいないなどの理由から実現しなかったのだとか。今回の展示はある意味で町長の念願でもあったわけだ。また、写真はかつての漁業の様子などを知るのに貴重な資料であり未来へ伝えていくべき町の大切な宝であるというようなことなどを述べていた。

 

2.基調講演① 

 

 続いて、青森県立美術館学芸主幹の高橋しげみ氏による基調講演1 「郷土に写真を残す〜青森県立美術館での実践を通じて」があった。

 

 内容は、長万部写真道場の写真家たちと同じ時期の写真家・小島一郎についてと、戦後開拓の写真についてが主だった。

 

 2009年には高橋さんの企画で「小島一郎 北を撮る 1924〜64」が開催された。小島一郎は青森市出身で、澤博と同年の1924(大正13)年生まれの写真家。昭和30年代の約10年間青森を撮影し、1964(昭和39)年に39歳の若さで急逝した。

(展覧会サイト:小島一郎 - 北を撮る - 戦後の青森が生んだ写真界の 「ミレー」 | 青森県立美術館

 

 以下講演を要約。

 

 15年ほど前に小島の奥さんが保管していたプリントやフィルム等の資料の研究整理を始めた。当時は小島は知る人ぞ知る存在だった。今回の展示にも言えることだが、資料は残そうと思わないと残らないもので、遺族に資料について問い合わせるも既に処分してしまった後であることもしばしばだ。

 その中でも特にモノクロネガフィルムは注意が必要で、フォルダーからを外して、中性紙で挟んで保存する。当時のものはセルロースが素材で、密閉されるとフィルムから発するガスで粉末状になってしまう(ビネガーシンドロームという)。しかも劣化が始まると止まらない。

 貴重な資料は、遺族にとっては故人の遺品でもある。昨年、ほとんどの資料を美術館に寄贈してもらったが、フィルムは寄託とした。新しいプリントを作る際、遺族がイニシアチブを取れるようにするためだ。

 小島の写真にわら半紙のような台紙に貼られた見本帳があり、雑誌社への売り込みに使用された。今展の写真でも同様に、このような台紙に描き込まれた撮影地や被写体の情報も貴重なものである。

 

 次に、小島一郎の生涯について。

 
 小島は津軽地方の写真で有名になった。空を逆光で撮って暗く焼きこむのが特徴で、覆い焼き等の暗室の作業で津軽を解釈、表現した。夕暮れの中作業をする農夫を撮影しミレーの絵に喩えて語ってもいる。ある写真についての小島の言葉からは消えゆく津軽の風景に対するロマンチシズムも感じられる。

 1958(昭和33)年、初個展「津軽」を銀座で開催。写真家の名取洋之助が青森に来た時に小島を見出し展示へ繋がったという。小島の写真の原動力には「地方とは、地方の良さとは何か」という問いがあった。

 同年9月、総合雑誌「世界」に「農村の夏」という題で作品がグラビア掲載された。ある農作業の写真には「津軽にて」とタイトルがあるが、これは南部の五戸の写真。被り物「五戸バオリ」からそのことが分かる。全く別の文化圏に属する南部を津軽だとしたことから、後に小島が津軽の写真家として定型化されていくことにも繋がり、また中央の人々が、「津軽」というわかりやすい記号で北国を見ていたことも伺える。

 1961(昭和36)年、小島は一念発起しフリーカメラマンとして活動するため上京、翌年には下北をテーマに個展「凍ばれる」を開催する。今展の長万部の写真でも被写体になっている綱の巻き取り機(マキドウ)もこの時作品になっている。中央への意識が感じられ、白黒のコントラストが強い作品は津軽にはない荒々しい風土が現れている。しかし評価は散々だった。

 東京に出たにも関わらず東北の写真でしか自分を出すことができない小島だったが、一か八かの決心で北海道へ行き流氷を撮ろうとする。だが上手くはいかなかったらしく写真は遺っていない。この撮影旅行で体調を崩し、1964年に39歳の若さで亡くなってしまうのだった。

 

 ここからは戦後の開拓写真について。

 

 小島一郎も戦後の写真家として開拓と無縁ではなく、八甲田山の中腹、標高600メートルの「ヌラ平」の開拓を記録した写真が残っている。緊急開拓として1953(昭和23)年9月から22戸が入植。満州から引き上げが遅れたことで中国共産党の影響を受け、壮行式で毛沢東の肖像を飾るような一団だった。環境が厳しく、7年で全戸が離脱した。

 岩手山麓の開拓でも青山学院大学写真部が撮影した記録がある。ここには現在でも酪農をしている人がいる。

 開拓地の写真では、切り株やランプを灯した室内がよく撮影される。

 六ヶ所村も戦後緊急開拓の地となった。もともと山形の庄内から中国へ満蒙開拓に入り、戦後に山形で定住できなかった一団が入った。「目で見る庄内開拓史」という本に記録がまとめられており、川村勇というアマチュア写真家が撮影した。庄内開拓団にお嫁さんが来た時の写真があるが、前川茂利が撮影した北海道の共和町の写真には開拓が厳しく嫁が来ないという言葉が添えられている。川村も「リアリズム写真運動」の影響を受けている。これらの写真は開拓団にとって、彼ら自身の歩みを確認できるものであった。

 

 最後のまとめ。

 

 20世紀以降、強制移住や難民の問題が起きている。国家間で翻弄され、そうせざるを得なかった人がいる。例に挙げてきたような戦後開拓の写真は、来し方を確かめ、私たちが立っている基盤を見出すことができるものであり、歴史の層の中にある私たちが知らない多くの出来事を暴露するものである。写真は常に新しい価値に開かれて流布するものだ。やはり被写体に近い場所にあって、そこに生きる人々の近くに存在することで意味の深さがが増していくものであると思う。

 

 講演はだいたい以上のような内容だった。

 

 

 

に続く。

 

 

 

「長万部写真道場 再考」② 写真展の様子

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 (写真台紙の文字)

 

 の続き。

 長万部町で行われた写真展「長万部写真道場 再考」の様子を抜粋して紹介したい。

 

 そもそも「長万部写真道場」とは何か?

 1951(昭和26)年に「長万部カメラ倶楽部」として発足した町内のアマチュアカメラマンの団体で、1967年には中心的会員だった澤博(1924~2012)が新会員を加え、名前を「長万部写真道場」として活動を活性化させた。写真家の土門拳が提唱した「リアリズム写真」の影響を受けながら、町内の様々な風物をカメラに収め、カメラ雑誌や公募展に投稿しながら全道、全国のカメラ愛好家と交流していたそうだ。

 

 

 

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 「ロクロ/マキドウ」

 遠浅の砂浜で船や網を引き揚げる際に使っていた人力の巻き上げ機。この写真は展示のチラシにも使用されている

 

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 写真を撮る人々。

 

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 砂の入った俵をひかせ、どの馬が早いか競わせている様子。

 

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 長万部アイヌエカシ司馬力弥と妻ハル。

 

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 小さな会場ながら、50点以上の写真作品と資料が展示され、多くは丁寧に解説がつけられていて見ごたえがあった。

 台紙の赤い字が写真家の自負を物語るようで印象深かった。

 

 

 

 に続く。シンポジウムへ。

 

 

 

「長万部写真道場 再考」① 長万部についてと撮影地見学ツアー

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長万部駅前。「毛ガニ」「東京理科大」の文字と新幹線の模型。)

  

 

 1、長万部について

 

 

 長万部町へ初めて行った。

 内浦湾に面した渡島北部、伊達市の対岸に位置するこの町は、名物の「かにめし」や温泉を目当てに訪れる人も多い。札幌からだと車で約3時間。シャクシャインの戦い(1669・寛文9年)では決戦場となり、幕末には南部藩の陣屋がおかれた。江戸時代から交通の要所でもあり、長万部駅函館本線室蘭本線、瀬棚線の接続地点として重要な役割を担った。

 (参考:長万部町役場 - 長万部の歩み長万部町 - Wikipedia

 

 町内の長万部町学習文化センターでは「長万部写真道場 再考 -北海道における写真記録のこれからー」と題し、長万部で活躍したアマチュア写真家のグループ「長万部写真道場」の活動を回顧する写真展が2月11日から開催されていた。主催は、「長万部写真道場研究所」。

 

(主催・長万部写真道場研究所のサイト:写真展・フォーラム開催のお知らせ | 長万部写真道場研究所

 

 また2月24日には関連イベントとして「『長万部写真道場』撮影地見学ツアー」が、最終日の25日にはシンポジウムが行われた。これらに参加してきた。

 撮影地見学ツアーの様子から書いていきたい。

 

  

 2、撮影地見学ツアーの様子

 

2018.2.24.

 

 ツアーは午後3時に写真展の会場である長万部町学習文化センターからスタート。参加者は20~30名くらいか。晴れていたがけっこう寒い。

 まず、町の様々な公共施設が並ぶ通称「センター通り」を歩く。

 

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 平和祈念館前へ。ここは町の開業医である工藤豊吉氏のコレクションが寄贈されて出来た施設だ。近くにある植木蒼悦記念館も同コレクションがもとになっている。今回はじっくり見る時間がなかったが、前庭には本郷新の代表作がいくつも並んでおり、また館内には丸木位里・俊 によってこの館のために描かれた「原爆の図」があるらしい。工藤は初期の八雲の木彫りグマなども買っていた道南地方におけるパトロンで、サナトリウムも経営しておりその中では短歌会など文化活動も盛んであったという。

 写真展との関係でいえば、長万部写真道場の主宰者のひとり澤博氏(1924~2012)の母は真狩村から工藤との縁で長万部に来たらしい。

 

(平和祈念館について:長万部町役場 - 施設の概要長万部町役場 - 展示作品等 

(植木蒼悦記念館について:長万部町役場 - 施設の概要、参考:はこだて人物誌 植木蒼悦

 

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 次に、通りの突き当りにある飯生神社(いいなりじんじゃ)へ。 大きな鳥居が目立つ。1773(安永2)年の創建。

 社殿は小山のうえにあり、周囲には「史跡 ヲシャマンベ陣屋跡」と「チャシ跡」がある。ヲシャマンベ陣屋は盛岡藩南部藩)が蝦夷地を警備するための幕末の施設。チャシ跡はもちろんアイヌ文化の遺跡である。

 陣屋について歴史的経緯を少し振り返ってみたい。1855(安政2)年に江戸幕府は、蝦夷地の再幕領化を行った。松前周辺を除いて箱館奉行の管轄に入り、東北諸藩が警備のため出兵を命じられた。その際、盛岡藩噴火湾沿岸の警備を命ぜられ、函館山の麓に本部である元陣屋を設置し、室蘭に出張陣屋、砂原と長万部に分屯所を置いた。また室蘭から八雲までを領地としても与えられた(八雲の山越内にあった関所が、蝦夷地と和人地の境である)。

 1856(安政3)年に設置されたヲシャマンベ陣屋は、沿岸が砂漠遠浅であり外国船が容易に近づけないとのことからすぐ翌年には廃止されたが、1868(慶応4)年に戊辰戦争の混乱の中で藩兵が引き上げるまで盛岡藩による蝦夷地警備、経営は続いた。

(参考:http://archives.c.fun.ac.jp/fronts/detail/id/4f0ab7a0ea8e8a08d20000e3

 

 ガイドを聴く人、坂を駆け上がって社殿に詣でる人もいた。ここで少し地理の説明があった。長万部は川が作った平地で、北西の風がナギになるそうだ。

 
 鳥居をくぐり、道路を渡って線路沿いに温泉宿が密集する通りへ向かう。「長万部温泉ホテル」前には大きな石でできた温泉記念碑があった。
 昭和29年、ガスの試掘をしたところ温泉が出た。翌年には四、五件の温泉宿ができていた。違法の混浴温泉(!)だったところを町営温泉として整備、民間に払い下げて今日の「長万部温泉ホテル」になったという。

 

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 JR室蘭本線の上にかかる跨線橋は老朽化が著しい。風が吹くと寒かった。以前この辺りにはJRの官舎など関連施設もあった。

 

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 商店街を通り、JR長万部駅の方へ向かう。駅前の角地は今は空き地になっているが、ここに「長万部食堂」があった。鰊御殿から持って来た瓦屋根の建物だったという。この食堂を経営していたのが澤博氏で、隣接する建物に今回展示された写真が保存されていた。

 

 ツアーの最後はすぐ近くの建物で、澤博氏の娘である 薫さんからお話を伺いながらコーヒーをいただいて解散となった。

 思っていたより参加者が多く、町民はじめ様々な人が写真展に関心を寄せていることが伺えた。人が多かったこともありガイドをすべてきちんと聴けなかったのが残念だが、長万部について少し知れて親しみが持てた。

 長万部に一泊。今回の展示とシンポジウムにあわせて写真家の方が東京などあちこちから来ていたようで、お話して刺激になった。

 

 

 

 次に、写真展の様子を紹介。

 へ続く。

 

 

 

 

井原市立田中美術館「安藤榮作展 SOUL・LIFE・SPIRIT」

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(安藤榮作展の様子)


 井原市立田中美術館(いばらしりつでんちゅうびじゅつかん)へ行った。第28回の田中賞を受賞した安藤榮作さんの個展を見るのが目的。
 

 

 
 目次
 
1.美術館までの道のり
2.井原市立田中美術館の概要
3.平櫛田中の作品について
4.「安藤榮作展 SOUL・LIFE・SPIRIT」について
 

 

 

 

 2017.10.20.

 

 1.美術館までの道のり

 

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 この時は奈義町から井原市まで向かったので、だいたい三時間くらいかかった。津山駅までバス。そこからJR津山線岡山駅へ。伯備線に乗り換え清音駅まで向かい、井原鉄道井原駅まで行く。岡山の内陸から広島との県境近くまで行ったことになる。

 

 井原駅では構内にジーンズショップがあり、田中の作品「鏡獅子」をモチーフにしたキャラクター「でんちゅうくん」が電車の中や街のあちこちにいた。井原市はジーンズと平櫛田中が観光の二本の柱のようだ

 駅前の通りをまっすぐ進み、途中大きい通りを左に曲がり、また右に曲がると市役所や市民会館に隣接する美術館がある。何箇所かに案内板があるので初めてでも迷わず行けそうだ。15分ほどの道のりのあいだ、田中賞受賞作家の作品などいくつも野外彫刻を見かけた。

 

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(でんちゅうくん)

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2.井原市立田中美術館とは

 

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 (井原市立田中美術館。金色の像は岡倉天心を彫った「五浦釣人」)

 

 井原市立田中美術館では、彫刻家・平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)(1872~1979)の作品や1972年から続く田中賞の受賞作家の作品を主に所蔵、展示している(美術館公式サイト:田中美術館 | 井原市。館内は撮影禁止だが所蔵作品はサイトで写真がみられる平櫛田中の彫刻 | 井原市

 なぜ美術館がここにあるのか。それは田中(でんちゅう)が現・井原市の田中(たなか)家に生まれたからだ。本名を倬太郎(たくたろう)といい、「平櫛」は10歳で養子に行った家の姓である。号として田中と名乗るぐらいだから、田中家や井原市への想いは強かったのだろう。市内の学校にもよく作品を寄贈しており、それらが今は館のコレクションの一部になっているのだ。

 ちなみに都内の小平市にあったアトリエは保存され美術館として公開されている小平市平櫛田中彫刻美術館)。

 建物は3階建ての本館と2階建ての別館からなっている。一階の廊下でつながっているので本館1階から入って別館の1、2階を見て、本館の2、3階を見るという少々面倒な順路だった。安藤さんの作品は主に本館1、2階と別館1階にあり、他のスペースに主に田中の作品があった。

 

 

 

3.平櫛田中の作品について

 

 田中は初め木彫人形師の中谷省古に弟子入りし、のち高村光雲に師事した。後年も像の前を通るたび頭を垂れていたというほど、岡倉天心を敬愛し多大な影響を受けている。

 ほとんどの作品が木彫か木彫を原型にしたブロンズだった。田中の作品が不思議なのは、写実的に見えながら表面にはのみ跡が残り素材感があるところだ。いくつかの作品は彩色されている。西洋から伝わった塑像や人体の研究もある程度は行っているはずだが、やはりその作品のベースは江戸時代以前の日本の木彫にあるのだろう。それが、量感より表面の質感を重視した作風に表れているのだと思う。

 兄弟子の米原雲海が一気に一刀で彫るべきところを丁寧に注意深く刀を使っているのを見て、手数をかけても一気に彫ったように見せることがこつであることを会得した、というエピソード(本間正義「序」(「平櫛田中展」図録所収) 東京国立近代美術館 1973年 6pより)から考えるに、田中ののみ跡は手数や手間など、時間を感じさせないことを目指したものだといえよう。

 

 

 
4.「安藤榮作展 SOUL・LIFE・SPIRIT」について

 
 安藤さんの作品は写真では見てなんとなく知っていたが、やはり現物を見ないとわからないこともある。撮影可能だったので、まずは会場の様子を写真で紹介したい。

 

 

 

 (本館1階)

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(2階)

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 館内では制作風景の映像も上映していた。それを見ると、安藤さんの作品は手斧(小さい斧)で少しずつ木を削り続けることで形作られていることがわかる。結果できた作品の表面はささくれ立ち硬い木の質感を思わせるが、同時にやや離れて見ればどれも丸みを帯びたフォルムの柔らかさやしなやかさをも感じさせる。そこには独特な生々しさがある。

 それは削られた木が皮の下の身を露わにすることによる生々しさではない。手斧と木との無数の衝突で作品の表面は金属が鍛えられるようにある種の硬さを持ち、もはや皮膚と化している。

 インタビューで、木彫家たちがチェーンソーを使うようになった時期に「木を彫っているというより、機械に人間が使われているような、ものの加工基準が機械にあるみたいで自分の性に合わなかった」(本展図録7p)と語る安藤さんは、「彫刻を作るときに、僕は身体性というものをすごく大事にしていて、道具と自分がひとつになって木を削っていく。『彫る』のではなく『叩く』んだと。」(本展図録8p)と制作に斧を使う理由を述べている。

  年月が肌に刻む皴さながらの斧の跡は、木という素材の表面を作品の皮膚と化すことで別の生命を吹き込んだことによる生々しさなのであろう。その意味で制作にかかった時間を見せないような田中ののみ跡とは対照的だ。安藤さんの作品は、はっきりと厚みをもった時間が刻み込まれた皮膚のある彫刻作品なのだ。

 

 安藤さんはドローイングにおいても、斧の跡を思い起こさせる短い描線を繰り返し書くことで何かを形を作っている。しかしそれは彫刻作品のための下絵ではない。彫刻とも響き合う、ある世界観のもとで描かれた作品だった。

 絵巻きを思わせる横に長い2階展示室のドローイングは、ヒト型の彫刻が流れる川のように置かれている傍に展示されている。うねるようなタッチで山や波を描き、続いて人々の生活が東日本大震災の時のものであろう津波にのみ込まれ、原発事故が起きた様も描かれている。そして最後には画面いっぱいに鳳凰が描かれる。

 あの鳳凰は震災後の私たちにとって救いだろうか。私にはそうは思えない。

 安藤さんが大事にしている身体性とは、彫刻では斧を、絵画では筆を媒介として、あらゆるものを包み込むようにつないでしまうものではないか。それは山も海も、動物も、花も虫も鳥も、忌まわしい事故も、すべてをある意味で肯定する、否、もはや肯定も否定も超えた地点に至ろうとするものではないか。そういう残酷さも見て取ることができてしまうような普遍的なつながりの象徴として鳳凰はあるのかもしれない。

 

 今回の展覧会タイトルを安直に訳すと、魂、生命、精神となる。

 安藤さんは、あらゆるもののつながりを考え、物と物とが接する表面にその表れを見出し、徹底的に追及する作家なのだ。そしてその表面にこそ、魂は、生命は、精神は、宿るのではないだろうか。そんなことを思った。

 

 

 

 (終)
 

2018年1月の京都②(東本願寺ギャラリー展とシンポジウム、北海道開拓と開教、アイヌの関わり)

 

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東本願寺の門)

 

 一応、の続き。東本願寺で行われた展示、シンポジウムへ。 

 

 目次

 

 1.東本願寺

 2.ギャラリー展

 3.シンポジウムの様子

 4.簡単な感想

 

 

 

 

2018.1.31.

 

 

 

  1.東本願寺

  

 叡山電車で鞍馬から出町柳まで。そこからさらにバスで東本願寺へ向かった。

 12時40分頃には東本願寺へ到着。 東本願寺は正式には真宗本廟といい、真宗大谷派本山本願寺ともいう。

 以前来たときは確か工事中だった。 まず御影堂と阿弥陀堂を参拝。御影堂は宗祖親鸞聖人の御真影(御木像)を安置し、阿弥陀堂浄土真宗のご本尊である阿弥陀如来像を安置している。どちらも1895(明治28)年に再建された建物で、2011年の親鸞聖人750回忌に御影堂門などと合わせて修復を行い、2009年に御影堂、2015年に阿弥陀堂と御影堂門が竣工したという。

 このお堂に使われる木材を運ぶためにかつて使用した毛綱(綱を丈夫にするために人の髪を混ぜたもの)なども見た。売店もちらっと見た。気まぐれで清沢満之の小冊子を買ってみた。

(公式サイト:東本願寺

 

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(手前が御影堂、奥が阿弥陀堂

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(左にあるのが御影堂門、京都タワーも見える)

 

 

 

 2.ギャラリー展

 

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 今回京都に来た目的のひとつ、参拝接待所内のギャラリーへ。

 ここでは、「アイヌ ネノ アン アイヌ(人間らしくある人間)―北海道開拓・開教の歴史から問われること―結城幸司の作品世界をとおして」が開催されている。これは毎年開催されている人権週間ギャラリー展の特集とのことだ。

(ギャラリーのブログ:http://www.higashihonganji.or.jp/photo/22011/

(展示を紹介する新聞記事:アイヌ同化策に加担、教団の歴史直視 東本願寺で資料展示 : 京都新聞

東本願寺と北海道開拓の関係については以前少し書いた→厚岸日記② - こたつ島ブログ

 

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 三部構成になっており「1.『維新と開拓』とアイヌ民族」では当時の地券や明治記念拓殖博覧会のポスターなどの史料とアイヌ民族復権運動にまつわる史料を展示。

 墓を暴いて集めた頭蓋骨がずらっと並ぶ北大教授・児玉作左衛門の研究室の写真があった。副葬品の刀もたくさん写っていた。最近もよくニュースでアイヌの遺骨問題が取り上げられている。見た瞬間気持ち悪くなってきた。悪趣味どころの騒ぎではない。狂人の所業だと思った。時に研究は人を狂わせるのだと思った。

 

 「2.『アイヌモシリ』と大谷派教団」では1977(昭和52)年の東本願寺大師堂爆破事件の遠因である、明治時代の大谷派教団による北海道開拓・開教の史料を展示していた。第二十二代法主となった大谷光瑩(こうえい、法名は現如)が北海道を訪れ本願寺道路を開く様子などが描かれた「北海道開拓錦絵」も批判的に紹介されていた。

 

 「3.共なる世界を願って 結城幸司作品展」では、アイヌ解放運動のリーダーであった結城庄司氏を父に持ち、版画家、木彫作家、ロックシンガーでありアイヌ民族運動家である結城幸司氏の版画作品を展示。アイヌの自然観を解釈し形を与えた作品は平面的かつ装飾的で、裏彩色を施しているのか繊細な色使いも伺える。動物と人間とを大胆に重ね合わせ、見事に一体のものとしてデフォルメしていたものが多かったという印象だ。

 展示のチラシなどでも使われた親鸞上人が描かれた作品もあった。「お山の力を感じる時」(2011)で、「もしアイヌの土地に親鸞聖人が来たならば、私たちの声を聞き、考えてくださるだろう」というコメントがついていた。明治政府に追随し、北海道を「開拓」し、開教によって同化政策を勧めた教団への皮肉とも、宗祖の精神に帰れと諭しているともとれる作品だが・・・。

 

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 会場の地下では親鸞聖人の一生を紹介する常設?のパネル展などもあり、興味深かった。専修念仏の弾圧により親鸞は師の法然とともに処罰され京から越後国流罪となった後、布教のため常陸国へ行き、著述にも励んだそうだ。京都に戻ったあとも関東の人々と交流は続いた。「北海道開拓錦絵」の詞書では、アイヌへの教化がこのような「御化導」と重ね合わされている。

 

 

 

 3.シンポジウムの様子

 

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(しんらん交流館。カフェスペースもありきれいな建物)

 

 この日は14時から東本願寺に隣接する「しんらん交流館」にて、竹内渉(わたる)氏(公益社団法人北海道アイヌ協会前事務局長)、結城幸司氏、訓覇(くるべ)浩氏(三重教区金藏寺住職)による公開シンポジウムがあった。基調講演ののちパネルディスカッションだった。(以下の内容は私なりの要約なので正確な引用ではもちろんない)。


 まず教団の人が挨拶し、ご本尊を拝んだ。

 

 1時間ほどの基調講演では、竹内さんが展示の第一部に対応する形で、アイヌにとっては侵略ともいえる「開拓」の歴史とアイヌ復権の取り組みについて駆け足で紹介した。その中には結城庄司氏の映像もあった。「民族としてのあらゆる誇りの復権」を掲げ様々な活動を行った中には、「アイヌのことをアイヌが書かなければならない」とし、執筆活動も含まれている。その点、竹内さんが見習っていると語っていた。遺稿は本にまとめられている。

 

 その後休憩を挟んで、15時10分頃からパネルディスカッション。コーディネーターは解放運動推進本部の蓑輪秀一氏。今年は明治150年、北海道命名150年でもある。この150年間は大谷派アイヌの関わった150年でもあったという挨拶から始まり、それぞれが交互に喋っていった。

 

 まず結城さんが、基調講演で父である結城庄司氏の映像を見て感無量になったと感想を述べた後、次のようなことを語った。

 150年の間に私たちは毒矢など生活の糧としての狩猟を奪われたが、そのことは自然と人間、カムイと人の間の繋がり、そこに生まれる祈りや礼節、謙虚さも奪われたということでもある。食べ物を手に入れる場所を子供に尋ねればスーパーマーケットと答えてしまうような今日では、アイヌだけでなく和人にも想像力(創造力?)が奪われており、繋がりが持ちにくくなってしまっている。

 また、そんな看板は誰も背負いたくないのに、アイヌは「差別を受けてきた人々」というあまりに大きな看板を背負わされている。それ以外の面も知ってほしい。

 いま、アイヌには先人の歌や踊りなどが伝統として残っている。しかし、暮らしの中にある神話や踊りは奪われてしまった。アイヌ文化振興法では、生活と文化が切り離されてしまった。今回の作品展示では、自分のユーカラを見せたかった。日本人もアイヌも、それぞれ世界観を持っている。「僕らが僕ららしく、あなたがあなたらしく生きること」に行きつくために、活動を行っていきたいと考えている、と。

 

 次に、大谷派の立場から関わってきた訓覇さんが、大谷派の開拓の概要や、活動の中で出会った印象深い出来事や言葉をお話されていた。初めて参加したアシリチェップノミで「お前は何系日本人か」と問われ、和人であることを意識しないで生きていたことに気がついたこと、差別しながらもアイヌを知っている北海道人ではなく、アイヌの存在を知らない立場でどう課題を受け止めるかということ、「かしこき者」としての現如の立場から脱却し、救ってあげる存在として自分を定義している大谷派の救済観をどう問い直すのか、など。

 

 会場からの質問では、「差別や人権侵害からの脱却をどうやっていくべきなのか」という問いがあった。竹内さんがまず、差別のことだけでアイヌを考えないでほしい、アイヌにもいろいろな生活があってそれぞれ暮らしているのだから、と前置きしてから、国連の人種差別撤廃条約(日本は1995年に加入)ではあらゆる差別は非科学的であるとし、このことは国際的規範であって、差別は差別する多数者の人権意識に問題があるので、救うべきは差別をする人(竹内さんの言葉を借りれば「加差別者」)である、と答えていた。

 

 最後に登壇者が一言ずつまとめとして発言した。

 

 まず訓覇さんが、あるアイヌに「お前が差別者として頭を垂れるのが悲しい、もう差別しないと言えないのか」「お前がどうしたいのか見えない」と言われたことから、謝罪は一種の似非性を持ってしまうという話や、アイヌの行事に参加することへの教団内からの反発があるなかで、アイヌと関わるうちに、ある時から親鸞の教えを話すようになり、あるアイヌに「親鸞の教えに出会ってアイヌプリ(アイヌの生き方)が恥ずかしくないとはっきりわかった」と言われた話をし、互いに、仏教でいう「独尊」性をもって共に差別からの解放を目指していくことの大切さを説いて結びとしていた。

 

 竹内さんは、今回の展示のタイトル「アイヌネノアンアイヌ」の解説をした後、大谷派の他には建前ではなく本気でこれほど人権問題に取り組んでいる宗派は聞かない、と竹内さん曰く「おべんちゃら」を言っていた。

 

 結城さんは、大谷派アイヌと向き合うことを最初は偽善だと思い、また信徒の中にも「なぜいまさらアイヌなのか」という反応もあったが、その関係の中で親鸞上人と出会えて良かったということと、2020年までに旧土人保護法などを無理に当てはめられたアイヌのある世代への謝罪をしてほしいと思っていて、それはアイヌの自信になり和人も今は過去と違うという宣言になることで、そこから出会い直しをしたい、と語った。

 

 締めくくりはロックシンガーでもある結城さんの手拍子と歌声に続いて、会場一体となってアイヌのごく簡単な歌を歌った。結城さんの歌声は力強くて引き込まれた。

 

 ご本尊を拝んで16時半頃に終了。

 

 

 

 4.簡単な感想

 

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 全体の感想。

 まず東本願寺の取り組みの本気度が驚きだった。シンポジウムの受付の近くでは様々な差別問題に関するパンフレットを配っていたし、アイヌ民族差別に関しては「共なる世界を願って」という真宗門徒に向けた学習資料集まで作っている。いわゆる葬式仏教ではない、現代の生活の中での宗教のあり方を模索しているのだなと感じた。

 結城さんはアイヌを「歌と踊りの民族」のように語っていたが、和人も和人なりの歌や踊りがあり生活文化があるはずだ、と聞きながら思った。この150年でアイヌがある種の想像力のような大きなものを失う一方で、和人も失ったものがあるのだろう。その問題の根っこはおそらく繋がっている。

 訓覇さんが「非当事者の当事者性」の所在について何度か語っていた。これは実に様々な場面で起きうる問題だと思う。しかし私は、実はどこにも非当事者なんていないのではないか、とすら思っている。つまり誰もが多少の程度の違いはあれ当事者である。時に過度に当事者である意識をもつことによる弊害もあろう。また、私たちはとてもあらゆる問題の当事者でいられるようなキャパは持ち合わせていない。しかしそのような意識でなければ問題の解決も難しいのではないか、と感じた。

 また、結城さんがシンポジウムの最後で語っていたことから想像するに、作品「お山の力を感じる時」に込めた思いは、皮肉を言うこととも諭すこととも少し違っているのではないか。結城さんは、一教団や一民族を超えた普遍的な人間像に迫るような存在として、親鸞を描いたようにも私には思えた。

 

 

 

 (終)