こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

2018年1月の京都①(鞍馬山)

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鞍馬寺参道) 

 

 

 

 目次

 

 1.京都駅から鞍馬へ

  2.鞍馬寺本殿までの道のり

 3.奥の院

 

 

 1.京都駅から鞍馬へ

 

2018.1.31.

 

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 到着を知らせる放送でハッと目が覚めた。深夜バスにしてはよく眠れた方だろう。軽い頭痛もとれていた。途中の休憩箇所では駐車場が混んでいて停まれず、予定より30分以上はやく着いている。まだ6時前である。

 ちょうど二年前の1月以来、久しぶりの京都である。

 鞍馬寺へ行こうと思ったのは、「鞍馬天狗」のイメージが強い場所だけれど修験道などの信仰の実際はどうなっているのか、また、牛若丸が天狗に武道を習った伝説もあるがその痕跡があるのかどうか、そのあたりが気になっていたからである。

 

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 (京都駅の掲示板。これを見ると京都に来た実感が湧く)

 

 朝食を確保しようと京都駅のなかに入ってみる。といってもまだほとんどの店は開いていない。唯一開いていたマクドナルドの店内をちらと見ると大小のキャリーバックがたくさん目についた。私のように朝早く高速バスから放り出されたような人ばかりで満員だった。

 

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 だらだらしていて通勤ラッシュに巻き込まれるのも嫌なのでさっそくバスで移動。駅前から「叡電元田中」まで。車内でバスの一日乗車券を買う。500円で一日中、市バスと京都バスが乗り放題になる。まだあたりは暗い。

 

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 叡山電車に乗り換え。夜が明けて徐々に明るくなってくるとともに、これから一日が始まると思うとわくわくしてきた。

 車内は暖房が効いていないのか寒い。ぽつぽつ人が乗っては降りていた。あまり考えないで乗っていたが、これが叡山電車だということはあの有名な比叡山までいくということだ。いつか行ってみたいものだ。
 窓の外がだんだん郊外らしい街並みになってきた。あまり京都らしくない、ごく普通のアパートや住宅街、霜の降りた畑。

 市原駅には後藤顕乗という戦国時代の金工師の墓石があった。京都精華大の横も通った。随分と郊外にあるように感じられたがまだ京都市内である。

 

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 段々と木が増えて来た。いつの間にか電車は山の中へ。7時30分には鞍馬駅に到着。京都の中心部から一時間半ほど、直線距離にして十数キロだろうか。

 レトロな駅舎には月岡芳年が描いた義経の浮世絵が展示してあった。

 

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 電車から何人か降りたが、みな観光客ではなさそう。

 あたりには誰もいない。車も走っていない。土産物屋も空いていない。コンビニもない。残念ながら朝食にはありつけそうもない。

 

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( 駅前には巨大天狗面があった)

 

 

 

 2.鞍馬寺本殿までの道のり

 

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 さっそく鞍馬山へ登る。(鞍馬寺公式サイト:総本山 鞍馬寺

 

 鞍馬寺は、そもそも鑑真の高弟・鑑禎(がんちょう)が宝亀元(770)年正月四日虎の夜にみた夢のお告げによって草庵を結び毘沙門天をお祀りしたことに始まる。古神道修験道の要素も受け入れながら、戦後は天台宗から離れ、独自の「鞍馬弘教」の総本山となっている。本尊は、この世に存在するすべてを生み出す宇宙エネルギーである尊天で、月輪の精霊ー愛=千手観音菩薩、太陽の精霊ー光=毘沙門天王、大地の霊王ー力=護法魔王尊(いわゆる天狗)、の三身を総称した呼び名でもある。

 紋は天狗の団扇っぽいが、鞍馬寺は横から見た菊だとしている。天台宗の紋も菊だし、横見菊という種類の紋をみるとやはり似ている。

 坂の上の仁王門の両脇には「阿吽の虎」がいる。鞍馬山狛犬ではなく虎なのである。毘沙門天のお使いが虎だからだ。珍しい。

 

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 (阿吽のうち吽の虎)

 
 門は開いていた。この山自体が「尊天のご身体」であり聖地だ。入山料を300円を納めると聞いていたのに窓口に誰もおらず、仕方がないので近くのお賽銭箱に入れた。静かな境内はどこかからか水が流れる音や鳥の鳴き声が聞こえて、すがすがしい気持ちになる。

  
 目の前の坂を登ると右手にケーブルカーの駅があったが、まだ運行していない。歩いていくしかなさそうだ。枕草子に「近うて遠きもの、くらまのつづらおりといふ道」とある「九十九折参道」は約1キロ。今は舗装されているので昔ほどは登りづらくないだろう。だが堂宇を見ながら曲がりくねった山道を行くので、距離の割にはなかなか着かなかったのは本当だった。

 

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 いくつかの社を見て急な坂を登って行く。ところどころに氷が張っていて、何度か滑りそうになった。山道の険しさより、寒さや雪、氷の方がだいぶ強敵である。小川も滝も凍ってしまいそうだった。

 

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 (由岐神社拝殿)

 

 左手に風雨にさらされた骨のように白い建物が現れた。由岐神社の拝殿だ。豊臣秀頼の寄進による桃山時代の建築で重要文化財である。斜面に建っているので、清水寺のように木を組んで高さを出して床を載せている。しかも変わっているのはその木組みの中心に階段があり、そこを登っていけるところだ。割拝殿という。優美でありながら力強い。鞍馬山は何度か大火に見舞われているので、それを潜り抜けていまここにこれがあるというのは奇跡的なことだ。御神木の杉の横を通り、石段を上ると本殿があった。

 その先を進むと昭和15年につくられた義経供養塔があった。

 

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 (義経供養塔)

 

 途中、一見鞍馬寺には似つかわしくない抽象彫刻のモニュメントがある。澤村洋二というデザイナーによる御影石とステンレスでできたその名も「いのち 愛と光と力」という。鞍馬山の本尊を具象化し平和を祈念するものとのことだ。毘沙門天などのヒト型の姿ではなく、抽象的な形で表現しているのが面白い。既存の宗教と一線を画そうとする狙いもあるのだろうか。

  

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 (モニュメント)

 

 足元に気をつけながらずんずん登って行く。本殿につくまで数人の参拝者しか見かけなかった。お寺の職員らしき方もほとんど見かけなかった。早朝の静かに緊張した空気のなかを歩けたのは贅沢だ。

 

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 8時半過ぎには本殿に着いた。一息つこうと休憩所に入ると、滑り止めのため足に巻く縄が置いてあった。たしかに巻くと滑りにくい。ロールプレイングゲームでアイテムをゲットするみたいだ。

 

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(なわ)

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  (こんな張り紙も)

 

 本殿前庭からはあたりの山々峰々が望め、比叡山も見えた。図形が描かれた石畳は金剛床といい、巷ではここがパワースポットだとか言われているらしい。まず、ご本尊を拝む。本殿金堂では9時からお守りなどの授与が始まった。正月(一月)限定の阿吽の虎置物と、毘沙門天のお札、鞍馬山案内の冊子のほか、般若心経を一文字だけ写経するというのもやってみた。合わせて3000円くらい。

 

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(本殿金堂)

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(本殿脇の虎)

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(本殿前庭)

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 (本殿近くの建物にあった絵馬)

 

 

 3.奥の院

 
 鞍馬山の森の奥へ進む。義経堂のある僧正ガ谷を経て、奥の院魔王殿に至る。さらに坂は急に道は険しくなっていく。ここからは木の杖を借りて登った。石段の上に雪が半分溶けて氷になった状態で積もっているので大変滑りやすい。手摺が頼りである。

 こんな山奥に与謝野晶子の書斎(冬柏亭)があった。弟子が移築したらしい。近くには句碑もあった。霊宝殿(鞍馬山博物館)は冬期休館だった。

 標高570メートルの鞍馬山は歴史的風土保存地区、鳥獣保護区に指定されているが、鞍馬寺も山全体を「鞍馬山自然科学博物苑」として保全に努めているようだ。霊宝殿でも様々な宝物の他に動植物の標本や写真の展示にスペースを割くほど自然が豊かなのだ。

 ここまでくる間、ところどころに道しるべのように誰かがつくった小さな雪だるまが置かれていた。一人黙々と足元に集中して、心細くなりながら森の中を歩いていく時に目にしてこれほど心が和むものはない。昨日もその前も、何らかの思いをもってここを訪れた人がいることの証だからだ。

  

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(冬柏亭)

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(霊宝殿は休館)

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 とうとう「義経の背比べ石」を過ぎたところの坂で転んで思いっきり尻餅をついてしまった。カメラが心配だったが無事だった。あちこちで直径数十センチの大木が何本も切り倒されていた。倒木が道を塞がないように予め倒したりしているのだろうか。あるいは天狗の仕業か。

 

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 僧正ガ谷には最澄が刻んだとされる不動像を祀る不動堂と、義経堂がある。義経の御魂は平泉から鞍馬山に戻ってきたと言われ、遮那王尊として祀られている。

 お堂の近くでは直径1メートルは楽にあろうかという巨木が根こそぎ倒れているのを見た。この先は杉の木の間を縫うような特に細い道だった。しかし道なき道といった感じではなく、雪が靴底で削られ踏み固められているのが見て取れる。毎日参拝者が後を絶たないのだ。ただ、そうした雪は氷のようにつるつるして、歩きにくいことこの上ないので大変困った。

 

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 魔王殿までなんとかたどり着いた。ここは護法魔王尊が650万年前に金星から舞い降りたとされ、古来より崇拝されてきた場所だ。本殿から1キロも離れていないのだが40分以上かかった。このあたりで義経は天狗に武道を習ったのかもしれない。

 貴船方面へ抜けることもできるが引き返し、大杉権現社を拝んだ。杉の木がすらっと立つ中にあるお堂は特に装飾も何もなくとも神々しさを感じさせるに十分だった。

 

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(魔王殿)

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(大杉権現社)

 帰りは勢いに任せて山を下った。これから本殿や奥の院へ向かおうとする人と随分すれ違った。

 さすがに足腰が疲れたのでケーブルカーに乗って下山。200円を料金として支払うのではなく、あくまで寄進して、そのお礼としてケーブルカーが利用できるようになっている。ちゃんと券売機(御寄進票機?)もある。

 

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 (御寄進票)

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(ケーブルカーはその名も「牛若號Ⅳ」という)

 

 鞍馬駅でちょっとお土産屋を冷やかしてから、11時過ぎには叡山電車で元来た路線を引き返した。

 

 

 

 (に続く)

 

北海道百年記念塔について思ったこと

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(百年記念塔。2016年撮影)

 

※こちらの記事には続きがあります。ぜひ合わせてお読みください。→http://kotatusima.hatenablog.com/entry/2019/01/09/%E3%80%8C%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E7%99%BE%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%A1%94%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E6%80%9D%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E4%B8%80

 

  

 次のようなニュースを目にした。

 

www.hokkaido-np.co.jp

 

 
 北海道百年記念塔は札幌市厚別区の道立野幌森林公園内にあり、北海道100年記念事業として68年に着工、70年に完成した。街の中心部からだと見えないけれど、札幌に長く住んでいれば一度は訪れたことがあるだろう。旅行者なら新千歳空港から札幌に向かう電車から見たことがあるかもしれない。

 建設費5億円のうち半分は道民からの寄付で賄われたという。高さは100メートルで、地上23.5メートルには展望台がある。2014年から老朽化により立ち入りが禁止されていた。
 このニュースはその解体の是非についてのもの。すでに修繕に数億円以上かかっている。存続か解体か。道は、北海道命名から150年の節目の今年、方針を固めるということだ。

 

(参考)

道立自然公園野幌森林公園 | 環境生活部環境局生物多様性保全課

野幌森林公園の見所(北海道百年記念塔ほか)/札幌市厚別区

※2013年5月24日の北海道新聞にこの塔に関する記事が出ているらしいが未確認。

 

 

 

  塔の基部には雪の結晶を模した六角形の広場があり、塔の水平断面は「北」の文字を、壁面の凹凸は風雪と闘った長い歴史の流れを、垂直方向は未来への意欲を表しているのだという。

 また、塔入り口部分壁面には佐藤忠良による大きなレリーフが二点向かい合って飾られている。狩猟するアイヌや伊能図のような地図、黒田清隆ケプロン岩村通俊、エドウィン・ダンなどの肖像も交えながら、赤レンガ道庁、時計台、札幌の街路図のほか、農耕、牧畜、漁業、石炭産業の様子など、主に産業の発展を表現するモチーフが選ばれているようだ。ここからもこの塔の建立意図が読み取れるかもしれない。

 

 

 

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(最寄駅のJR森林公園駅にある案内看板)

 

 私の家のホームビデオには家族で野幌森林公園に遊びに行ったときのものがある。塔周辺の広い芝生は家族でシートを敷いてお弁当を食べたり子供を遊ばせておくのにちょうどよい場所だ。遊びにでかけた思い出を持つ札幌市民はけっこう多いのではないか。また百年記念塔に隣接する北海道博物館(旧北海道開拓記念館)や、野外博物館である北海道開拓の村は、小学校の遠足で出かけたり校外学習で訪れたりした場所でもある。大学へ進学してからも通学につかう電車の車窓から毎日のようにこの塔を眺めてきた。記憶の片隅にはいつもこの百年記念塔が建っていた。あの茶色い姿が住宅街の中から頭ひとつ飛び出している景色が見えなくなるのだとすれば、私にとっては当たり前の景色だっただけにとても寂しい。

 

 

 

 ところで、そもそもこの塔が記念する北海道百年や開道百年というのはなんだろうか。それは1869年の開拓使設置と北海道改名から数えた節目である。そしてこの「開拓」は、アイヌにとっては大量虐殺と文化的抹殺の歴史であり、開道百年は同化政策完了をも意味する忌まわしい事業だった。

 百年記念塔は北海道開拓における先人の労苦を讃える一方で、今日的では同化政策の肯定の一翼を担うとも捉えられるモニュメントであることに疑いはない。私は北海道百年記念事業の全体については詳しく知らないが、例えば旭川常磐公園にある彫刻作品「風雪の群像」や、いわゆるアイヌ肖像権裁判で批判された書籍「アイヌ民族誌」など、その是非について議論がなされ非難されている例はある。

 

 それでは、この塔はどうするべきなのか。

 確かに私をはじめ多くの市民や道民に親しまれている塔には違いない。だが数億~十数億をかけてまで残す意義、意味がどれだけあるのかといえば疑問を抱かざるを得ない。

 

 私はこの塔の形や色はけっこう好きだが、何としてでも残すほどの出来栄えだとは正直思えない。建築としての価値はどうなのだろうか。修繕して電波塔か何かのように利用でもできればいいのだが。観光名所になる見込みもない。もしこれを同化政策の「負の遺産」として見ても、史料的価値をもったり、過ちに対する戒めとしてのシンボルになれるかどうかというと、私には心もとない。実現しにくいだろうが、「北海道百年」を反省し、新たな北海道の門出を祝う祝砲として派手にイベント的に爆破して壊す方法もなくはない。しかしそれはあの塔に親しみを抱く人には受け入れ難いことだろう。

 

 大前提として、見たくないものに蓋をするような価値観は私は持っていないし、負の遺産的なものであればなおさら残すべきだというのが私の考えだ。例えば政権が変わったときにぶっ壊されるような政治的指導者の肖像彫刻を残そうとすることがある。そういうものと比べると、この塔のように抽象的な形態が象徴性をもってしまうことがなんだかもどかしい。日本的なのかもしれないとも感じる。百年記念塔はあまりにただの塔であり過ぎる。

 

 北海道開拓記念館が北海道博物館に名を変えて数年、北海道命名150年を迎えようというこの年に百年記念塔解体の話題が出るのは私には偶然とは思えない。ただ、解体されるにしてもそこに塔があった事実はきちんと残すべきだろう。

 たぶん一番現実的でつまらない結末は静かに解体されることだ。その時は塔があったことを忘れないよう、せめてこの目に焼き付けておきたい。それは、あの塔に想いをもつものにとっての義務かもしれない、と思うのだ。

 

 

 (終)

 

※補足(2019.1.8.)

この記事の一年後、自分で自分に応答しました。ぜひお読み下さい。

→ http://kotatusima.hatenablog.com/entry/2019/01/09/%E3%80%8C%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E7%99%BE%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%A1%94%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E6%80%9D%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E4%B8%80

  

 

 

映画「ゴッホ 最期の手紙」

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 映画「ゴッホ 最期の手紙」を見た。原題は『Loving Vincent』。

  

 ※以下に示すページ数はいずれも本作パンフレットのものです。

 

 ほぼ全編をゴッホのタッチに似せた油絵を撮影して動画にしたことで話題の作品だ。1秒あたり12枚を使用し、描かれた枚数はのべ62450枚にのぼるという本作はまさに「動く油絵」(p.6)である。途中挟まれる回想シーンはモノクロの水彩画で描かれている。

 ストーリーは次のようなものだ。郵便配達人である父からゴッホの弟テオあての未配達の手紙を託された青年アルマンが、手紙を渡そうとゴッホの足跡を訪ね歩き、最期の日々を過ごしたオーヴェールでゴッホの死の真相を追い求め様々な人と出会っていく。謎解きありの、サスペンス的な映画である。

  

 映画館に駆け付けたときには運悪く座席がほとんど埋まっており、最前列で見上げながらの鑑賞だった。首が痛かった。

 初期作品など例外はあるが敢えて大雑把にゴッホの絵画の特徴をいえば、太目で厚塗りの筆跡であり、カラフルで大胆な色使いだろうか。少なくとも、モノトーンではないし細密でもなければグラデーションが繊細なものではない。映画ではこのゴッホらしいタッチがよく再現されていたと思う。逆に言えば、もし細密で繊細なグラデーションを持つ絵画をアニメ化することになれば、カットをつなぐのも色指定をするのもさらに大変だろうという想像もできる。

 96分の上映時間中、私はずっと間近でゴッホタッチの絵を見せられ続けたわけだ。マチエールをよく見ることができたのは良かったとしても、シーンによってはほとんど抽象画のようであって描かれているものが認識しにくいのは辛かった。鑑賞の際にはある程度スクリーンから離れて見ることをお勧めする。

  

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 (映画のパンフレット。どこかで見たことあるような・・・) 

 

 なかなか凝ったデザインの本作のパンフレット(800円)には、ゴッホに扮した写真作品が代表作である美術家の森村泰昌によるエッセイが掲載されている。

 

 森村はまずピグマリオンの伝説を引いて、絵が動く本作を「これまで多くの芸術家達が夢見るだけで諦めてきた ”動く芸術世界” に挑戦し、見事これを実現し得た作品」(p.64)だとする。さらにアニメーションの語源からアニマ、アニミズムの話になり、森羅万象に宿る命が絵画の絵の具の粒子一粒一粒にも宿っているとし、「絵画に描かれた静止画像とは(中略)言い換えるなら一時停止のかかった動画のようなものを意味しているのかもしれない」(p.65)ともいう。本作を見ていて森村が快感を覚えるのは、「本作によってフリーズ状態が解かれた絵画が、やっとそれ本来のスムーズな動きを取り戻せたから」(p.65)だと分析してみせる。さらに小林秀雄にも触れ、「絵画が動くという美術的な時間軸と物語が展開していくという文学的な時間軸」(p.67)という二つのゴッホの表現世界に向き合うところが本作の魅力だとしている。

 

 この文章に私はいくつか疑問を覚える。

 まず、「これまで多くの芸術家達が夢見るだけで諦めてきた ”動く芸術世界” 」というところ。これが油絵具を用いたアニメーションを指すのだとしたら、例えばロシアのアニメーション作家アレクサンドル・ペトロフの作品を見落としていることになる(もっとも、ペトロフ監督の作品は油絵具でガラス板の上に描かれたものを撮影しているので、厳密には油彩画ではないが)。

 ペトロフ監督は油絵具を手段として用い、様々な物語を紡ぎ出してアニメーション作品を作っている。一方、本作はどうだろうか。ゴッホの晩年をめぐる人々の謎を追うストーリーを語ることはもちろんだが、油絵を動かすことも重要な目的のひとつであろうから、油絵であることとアニメーションであることは、手段でありながら同時に目的だともいえよう。

 

 また「本作によってフリーズ状態が解かれた絵画が、やっとそれ本来のスムーズな動きを取り戻せたから」ともあるが、ここでいう本来の動きとは何なのだろうか?

 この映画は、技法としてはロトスコープ、つまりカメラで撮影した動きをなぞってアニメにする方法により制作されている。本作は絵画のモデルとなった人を実在感をもって表現することに一応成功していると思う(p.77参照)。ただ、その動きを絵画の本来の動きだと言ってしまっていいものなのだろうか?「動きが感じられる絵」という通俗的な表現があるが、例えばゴッホが表現したかったのはこの映画のような動きなのだろうか。私には疑問である。

 どのような絵を思い浮かべてもらってもいい、何か動きが感じられる絵があったする。その絵に描かれた場面を実写で忠実に再現して撮影したときの動きと、その絵を鑑賞した時に感じとることができる動きが、同じになるとは限らないのではないか?それは全く別の動きだということもあり得る。この映画におけるゴッホの絵の動きに「私が思っていたのと違う!」と違和感を覚える人がいてもおかしくはない。映像の方が絵画よりそのものの持つ本来的な表現ができる、などという驕りなのかどうか分からないけれども、映像には映像の動きがあって、アニメにはアニメの、絵画には絵画の「動き」があるのではないだろうか。

 

 他にもパンフレットの文言にはひっかかる点がある。「アーティストたちによる情熱の結晶である本作」(p10)、「アートの一部となった俳優たち」(p12)、「芸術の秋を彩る、全く新しいアート体験」(同)などあるように、本作を無理に「アート」として位置づけようとしていると私には思えるのだ。そこでいうアートとは何なのか、どうも気になってしまう。

 例えば「アーティストたちによる情熱の結晶である本作」という一文があるけれど、採用試験や研修を経てゴッホのタッチを完璧に習得した彼ら125名の画家達の仕事は、アーティストのそれというよりむしろ職人(アルチザン)のそれであろう。これはもちろん蔑称ではなく、彼らの忠実な作画のおかげで本作の完成度の高さがあることは疑いようがない。彼らを褒め称えるのであれば職人という呼称がふさわしいと思うのだが・・・。

 

 では、映画「ゴッホ 最期の手紙」は果たしてアートなのだろうか?そうでなければ何なのか?

 

 まず、本作をアートアニメーションなのか考えるにあたって、紛れもないアートアニメーション作家であるペトロフ監督の作品と比較してみよう。先ほども触れたように、アニメであることはあくまで手段であって目的ではない。アートアニメはアニメという方法で何かを表現するものだ。油彩画家であれば、油絵という手段を通して何かを訴えるだろう。だとすると、油絵でありアニメーションであることが手段でありながら同時に目的だともいえる本作は、少なくともふつう言われるアートアニメーションではない。ゴッホの絵が動くという点はこの作品の重要な一部を占めていると思える。ゴッホタッチの油絵という手段でゴッホの世界観を表現した、と考えれば、むしろ一種の絵画作品と呼んでしまいたくもなる。

 また、動きにおいては、もし、映像には映像の、アニメにはアニメの、絵画には絵画の、それぞれ特有の動きがあるのだとすれば、本作は映像の動きをトレースしているのだから映像寄りの作品だ、という方がふさわしいとも考えられる。

 

 結局のところ、油絵を撮影したアニメーション技法で作られた映像作品である本作は、やはりアートという大雑把な括りで呼ぶほかないのかもしれない。ただ今日のアートという語の意味するところは、ゴッホがめざした何かをアートと呼ぶときのそれとは随分違ってしまっているだろう。それは比較できるかどうかもわからない。

 本作がゴッホの絵の愚直なまでの模写で構成されている以上、ゴッホの芸術を超えることは不可能であるという考え方もできる。

 もし本作のあり方とゴッホの制作との共通点を求めようとすれば、映画の完成までに費やされた莫大な時間と労力を支えた情熱でありゴッホへの愛ではないか。それはゴッホの絵に懸ける情熱や愛を思い起こさせなくもない。ストーリーについての良し悪しの判断は私の手に余るが、本作に費やされたであろう手間や時間は見ごたえ十分だ、とは言えるだろう。

 

 (終)

 

宗吾霊堂

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 (宗吾霊堂の塀にあった紋章)

 

  目次 

  

 1. 佐倉宗吾について

 2.宗吾霊堂までの道のり

 3.境内の様子

 4.宗吾御一代記館と宗吾霊宝殿

 5.本堂内部

 6.お土産

 

 1. 佐倉宗吾について

 

  

  義民・佐倉宗吾をご存じだろうか?

 「佐倉宗吾」とか「佐倉惣五郎」「木内宗吾」と呼ばれるが本名は木内惣五郎で、下総国印旛郡佐倉藩堀田家十一万石の領内の公津村(現・成田市)に1612(慶長12)年に生まれたという。

 寛永~承応年間(1624~1652頃)、佐倉藩領民は国家老による暴政と重税で大変苦しめられ、他国に逃げるもの餓死するものなど数知れず、ついに百姓一揆が起ころうとするときに、割元名主(名主より上、郡代や代官より下で村落の行政を担当する役人)であった惣五郎はそれを押しとどめ、各村々の名主を糾合し、代官屋敷へ訴えでるも門前払いにあい、江戸に上って佐倉藩の屋敷に訴えるも追い返され、幕閣の久世大和守広之に駕籠訴をするも聞き入れられず、ついに妻子を離縁したうえで宗吾一人での将軍への直訴を決意した。上野寛永寺に参拝の折の四代将軍家綱の傍に仕えていた保科肥後守正之によって訴状は取り上げられ、佐倉藩の実情は幕府の知るところとなり、領民は苦しみから解放された。だが、直訴はもちろん罪に問われ、翌1653(承応2)年、宗吾は磔、子供4人までも打首に処せられた。42歳であった。これらの行いが義民とされる所以である。

 のちに堀田家歴代当主は毎年8月3日の命日に祭典を行い、1752(宝暦2)年の百回忌には宗吾道閑居士の法号を追贈(以来、宗吾様と呼ばれるようになる)、1791(寛政3)年の百五十回忌には徳満院の三字を加えた石碑を寄進し、後に木内家再興も許した。

 宗吾父子が処刑された公津ヶ原刑場跡に墓所として築かれた宗吾塚が、後に宗吾霊堂となって今に至るのだという。

 

 以上は宗吾霊堂のパンフレットや冊子「実説佐倉宗吾伝」によっている。具体的な年号も入っているがこの話はあくまで伝承であり、だいぶ創作も含まれているだろう。ただそこにいくら創作が盛り込まれていたとしても、佐倉宗吾は今日紛れもなく信仰の対象とされ崇められ祀られている。

 その実際を見に行って来た。

 

 2.宗吾霊堂までの道のり

 

 2017.12.3.

  

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 日暮里から京成電鉄に乗って特急で成田方面へ向かう。1時間ほどで「宗吾参道」駅に着く。改札を出て右へ進み階段を降りる。あたりは住宅や畑ばかりで目立ったものは特にない。

 

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 少し歩くと左手に上り坂があり、道の両脇に灯篭が立っている。ここを上っていけばよい。

 

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 「義民ロード」(!)というらしい。宗吾霊堂から2キロ先にある宗吾旧宅では今も子孫の方が農業を営んでいるのだとか。

 

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 案内板によれば、佐倉宗吾は「農民の神様」として崇められているのだ。ここはまだ酒々井町だが宗吾霊堂成田市にある。

 

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 坂をずっと上っていく。天気が良い日だった。看板などないので少し不安になる。とにかく道なりに突き当りまで進み、右に曲がるとこのような道に出る。まだ宗吾霊堂は見えない。

 

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 左手にあったのは「宗吾郵便局」。この辺の地名を「宗吾」というらしい。

 

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 右折してまっすぐ進んだ道の突き当りの交差点に門があった。ここだ。参道の向こうに山門が見える。

 

  宗吾霊堂というのは通称で、正式には「真言宗豊山派別格大本山鳴鐘山東勝寺」という。総本山は長谷寺。もとは平安時代に房総を平定した坂上田村麻呂戦没者供養のために建立したのが始まりで、創建1000年以上になるが、その由緒を示すような目立つものは見当たらなかった。ここは本尊も大日如来ではなく宗吾様である。ホームページには今の場所に移ってからの宗吾霊堂は約350年とあるが、これはたぶん宗吾の処刑から数えたのだろう。

                         (宗吾霊堂公式サイト

 

 3.境内の様子

 

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 まだ朝の9時過ぎ、土産物屋は開いていなかった。

 

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  手水舎。宗吾霊堂はどの建物もけっこう千社札が貼ってあった。

 

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 これが宗吾父子の墓である。立派だ。大名クラスの墓でもここまで立派なのはなかなか無いのでは。ここがまさに刑場の跡地なのだという。 早速お線香をあげた(100円)。

  

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 参道の土産物屋の裏手には寄進した金額と氏名が彫られた石碑がいくつも立っていた。境内でもそこらじゅうに石碑があった。

  

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 石碑の間から三毛猫が出てきた。

 
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 大山門(仁王門)。 1978(昭和53)年施工。仁王像は身の丈8尺8寸(2.6メートルくらい)で鋳造金箔仕上げ。楼上安置仏の聖観世音菩薩像は高村光雲作。

  

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 山門をくぐると正面に大本堂、右手に鐘楼、左手手前に総合受付所がある。辺りには「七五三詣で」の赤い幟がいくつか立っていた。まず鐘楼へ。

  

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 「カレーの碑」らしい。詳細は案内看板の文字が消えていて分からなかった。

  

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 石碑だらけ。

 

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 鐘楼。彫刻が立派だった。

 
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 鐘楼の上から。

  

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 やはり石碑や灯篭がたくさんある。平成20年代に入ってからのような最近立てられた石碑でも、「○○宗吾講」「○○義民講」と彫られているものがちらほらあった。そういう講の活動がまだ各地で行われているのだ。

 

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 本堂の手前右手に薬師堂がある。ここが一番千社札や額がたくさんあった。

 

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 纏が描かれた奉納物が散見される。土産物屋のおばちゃん曰く、宗吾霊堂は消防や鳶、木遣りなど危険な仕事に従事する人の信仰が特に篤いのだという。

 

   

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 由緒を示した看板には、宗吾が祀られるまでの経緯に続いて「即ちお墓では偉大な宗吾精神(大慈大悲の広い心)を敬慕し、お堂では信徒の方々が諸願成就を御祈祷し、現世のご利益を授かるのであります」とあった。「宗吾精神」ってすごい言葉だ。

 「毎月三日は宗吾様の命日。九月三日は祥月命日」らしい。ふと考えてみると、今日はまさに宗吾様の月命日だ。これも何かの縁かもしれない。

  

 大本堂は1921(大正10)年の建築。旧本堂は1910(明治43)年に火事で焼け、直ちに仮本堂が建立されたが、これが現在の薬師堂である。扁額「宗吾靈」は徳川家達(1863~1940)による。やはり将軍に直訴した縁からだろうか。家達は田安家出身なのでもちろん直系ではないが、徳川宗家16代当主だ。

 本堂の内部は祈祷がなければ参拝できる。この時はちょうど祈祷の直前だったため、後回しにした。

 

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 本堂裏手へ。

 

 4.宗吾御一代記館と宗吾霊宝殿

 

 宗吾御一代記館は宗吾の事績を等身大の人形66体13場面に再現した施設。宗吾霊宝殿は宗吾の遺品と伝わるもの等を展示。入場料は二館共通で700円とちょっと高め。

 

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 まず宗吾御一代記館へ。手前の日本庭園は信徒が寄進したものだそうだ。

 入り口には昭和を感じる鋳物の虎の置物などが売られていた。掃除はされているようで観覧には支障ないけれど古い建物だからだろう、かなり寒かった。太宰府天満宮でも菅原道真の生涯を博多人形で再現していたがほとんどが等身大ではなかった。この「人形で再現する」という一つの文化?が気になる。流行った時期があったのだろうか?

 それぞれの場面にボタンがあり、捺すと解説音声が流れる。芸者で遊ぶ家老から始まり、困窮を極める農民たち、一揆を防ぐ宗吾、名主たちと相談する宗吾、などなどが目の前に展開される。特に直訴を前にして甚兵衛という渡し守に助けられる場面や、親子の別れの場面、将軍に直訴する場面が見どころ。終盤、むしろに座らされ処刑されようとする宗吾父子の前には来場者が投げたであろう小銭がいっぱい散らばっていた。

 堀田家が宗吾を葬い祀ったのは、宗吾の怨霊が堀田家を呪い、奥方の変死や藩主正信の狂気と改易となって表れたから、ともいう。僕の中での佐倉宗吾のイメージも、まさに歌舞伎に出てくる怨霊の姿だった。しかし、展示物やパンフレットでは藩主堀田家ではなく家老による悪政が強調されているように思えた。これは名誉回復を行なった堀田家に対する遠慮なのだろうか?

 

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 次に宗吾霊宝殿へ。建物は金刀比羅宮の宝物館を思い出させる。雰囲気はあるが、ここも寒くてあまりいい環境ではない。展示物も一応ケースに入っているものの手入れや整理はされていないようであった。宗吾一族の遺品や、浮世絵、奉納されたと思しき彫刻作品から、封筒に入ったままの書類の山、須恵器、甲冑、著名人が書いた「義」の色紙などなど。バラエティ豊かというよりは雑多な印象。これで金取るのか~というくらい。

 

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  石碑に宗吾様の姿があった。帯刀せず、総髪で髭を生やし、手には巻物、着流しである。

 

 本堂に戻って建物内を拝観する。

 

 5.本堂内部

 

 本堂は薄暗く、様々な仏の姿を描いた掛け軸が下がっていた。中央の沙弥壇に宗吾様の尊像を安置した厨子が、左右には4人の子供を祀ってある。他にもいくつか神仏がお祀りしてあり、沙弥壇の左手から裏手に入って右手に抜けて参拝できる。左横には虚空蔵菩薩がお祀りしてあり、その手前には宗吾と行動を共にした5人の名主の小さな像が並んでいる。皆総髪でそれぞれの手は印を結んでいる。沙弥壇の真裏には夢想出現大黒天が祀ってあり、マラソン選手の高橋尚子がよくお参りに来ていたらしい。大黒天とマラソンに何か関係があるのだろうか。一時期はお守りを高橋選手が身に着けていたとかで、ずいぶん参拝客で賑わったらしい。

 

 本堂の向かって左横の壁際に、膝ぐらいの高さの夫婦と思しき男女の木像があった。彩色はされず着物などはのみで大づかみに彫った跡も適度に残り、技術的に達者な作品だと感じた。女性は日本髷に和服、男性は短く撫でつけた髪に羽織袴の姿で、二人とも正座をして合掌し前を見据えている。はじめは宗吾夫妻の木像かな?とも思った。小さな看板には次のように書いてあった。

 

 「当山御篤信 旧東京市京橋区入舟町在住 岡田秀治郎 つる 殿御夫妻の像 昭和初年 ご奉納」「宗吾尊霊を崇信すること殊の外篤く 多額の浄財を寄進せられ、且永世にわたり 宗吾尊霊を礼拝せんと願い自らを木像に刻し後世も崇拝を続ける志を伝えるもの也」

 

 信仰心によって自らの姿を木に彫らせ、死後も信仰を続けようとする。そこまでの信仰心とはいかなるものだったか。この彫刻はいったい何なのか。モノを形作ることの厳粛な根源を見せられたような気持ちになった。

 

 6.お土産

 

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 帰りにお土産屋に寄った。だるまやまねき猫、せんべいなどの他、「開運宗吾山」と書いた緑色の湯飲みや鉢に目がいった。胴が二重の構造になっており、桜の透かし模様や筆の勢いのまま描いたような馬の絵もなかなか良い。

 

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 お土産屋のおじさんによれば、これは相馬焼という福島県の焼き物で、今は原発事故のせいで土の質が変わってしまったとかで作られていない焼き物なのだ、ということだった。ちょっと調べてみると、やはり焼き物の協同組合は移転を余儀なくされ、放射能汚染で釉薬の採掘ができなくなって廃業に追い込まれそうになったが、同じ発色をする釉薬を開発して今も販売されているようだ。(参考→大堀相馬焼 - Wikipedia大堀相馬焼 松永陶器店

 この焼き物はタイムカプセルのようにお土産屋に取り残されたのだといえるかもしれない。

 

 おまけだと言っておじさんがくれたおせんべいを食べながら、宗吾霊堂を後にした。

 

 

 (終)

厚岸日記②

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 (正行寺本堂内) 

 

 の続きです。道東の厚岸町へ行ってきました。午後からは正行寺へ。以下の記述はパンフレット等のほか、「北海道開拓と本願寺道路」(弥永芳子著、弥永北海道博物館 、1994年)、「アイヌ社会と外来宗教ー降りてきた神々の様相」(計良光範著、寿郎社、2013年)を参考にしています。

 

 目次

 

 1.正行寺

 2.お供え山チャシ跡群

 3.海事記念館

 

 

 

 2017.11.11. ②

 

  1.正行寺

 

 下調べをしていた時に、厚岸のようなそう大きくはない漁師町に重要文化財のお堂があると知ったときは驚いたが、本当にあるのである。(むしろ、町の大小に関わらず漁師町では文化を大事にする傾向を感じることの方が多いかもしれない)。

 正行寺は道東エリアで初めて重要文化財に指定されたのだとか。(正行寺のホームページ→寺宝・文化財 | 正行寺

事前に連絡をしておけば無料で見学できる。

  

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 国泰寺通りを厚岸大橋に向かって引き返すと途中右側に小さな看板が立っている。そこを曲がると立派な三門が見えてくる。鐘楼や忠魂碑を見ながら進むと本堂が左手にあった。鐘楼も本堂と同じくらい歴史ある建築で1908(明治41)年のもの。

 

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 正行寺は正式には真宗大谷派正行寺といい、東本願寺を本山とする。(ちなみに西本願寺を本山とするのは浄土真宗本願寺派)。 1879(明治12)年に厚岸説教場が開設されたのがお寺の始まりだ。重要文化財の本堂は、1799(寛政11)年に新潟県糸魚川市の満長寺本堂として建てられ、1909(明治42)年に解体、輸送、移築し、翌年竣工、翌々年落慶法要が行われた。

 そもそも東本願寺徳川家康の時代から江戸幕府の庇護を受け、西本願寺は朝廷と親密だった。幕末、西本願寺尊王論者と交流を深め、尊王攘夷を鮮明に打ち出していた。戊辰戦争の際は東本願寺は朝廷に反逆するらしいという噂が流れ、あやうく新政府軍の焼き討ちに遭いそうにもなった。

 財政困難の新政府は、北海道開拓を東本願寺に依頼した。東本願寺は旧幕府時代の教線(江戸時代の北海道では、浄土真宗については最も早く開教した東本願寺派の専念寺にのみ松前藩が開教を許可、西本願寺派は長い間許されなかった)を守りつつ、新政府への忠誠を示し、更に教区の拡張も目論み、依頼を受けた。そしていわゆる本願寺道路を開き、宗門道場を建設した。函館と札幌をつなぐ道路の中でも、本願寺街道と呼ばれる今の札幌市と伊達市の間の道路の開削は特に難工事であり、行政上も重要であった。このようなことから、真宗大谷派(=東本願寺派)は北海道と縁が深いといえ、その流れの中にこの正行寺もあるのだろう。

 

 閑話休題

 

 この日は檀家さんの集まりがあったようで、おばあちゃんたちがぞくぞくやってきていた。本堂に隣接した寺務所らしき建物に入っていくと、すでにお寺の方が待っていてくださっていた。絨毯が敷き詰められた廊下の先は本堂につながっている。ぱちぱちと手際よくスイッチが点けられ、金と極彩色で飾られた欄間や内陣が照らされた。

 

 

 

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 (参詣間から内陣を見る)

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(中央の欄間、極彩色の牡丹と天女)

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(向かって左の欄間、未彩色の牡丹と天女)

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(向拝部分の彫刻)

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(桜鶏図板戸)

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(内陣)

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(木鼻部分の象鼻)

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(象鼻)

 

 本堂の中にはパネルが何枚かあって、見どころの解説があった。

 確かに立派で綺麗な建物である。しかし、そこに感嘆するだけではなく、この建物がここにある意味を考えたい。建物を新潟からわざわざ買って持ってきて北海道に合わせた改修を施したこと、移築当時の資料が残っていることなども文化財指定の理由だそうだ。東本願寺そのものの力に加え、門徒にそれを支えられるだけの力があったことも想像できる。江戸時代には東蝦夷地一番の賑わいを見せていたともいう厚岸はかつてどのような姿だっただろうか。

  

 

 

 13時半頃まで見学し、次の目的地へ。 お供え山チャシ跡群のある標高79メートルのお供え山へは徒歩数分。

 

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(あ!シカがおる!!)

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 数匹のシカが街中で草を食んでいた。森の中の道路を車で走っていればシカと出会うことはよくあるのだが、あまりにごく自然に風景に溶け込んでいたので気付いた時には驚いて声をあげてしまった。

  

 

 

 2.お供え山チャシ跡群

 

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 「お供え山チャシ跡群」の看板はすぐ見つかった(日蓮宗法華寺の横にある)。ここは17~18世紀の町指定史跡で、北側の「鹿落しのチャシ跡」、東側の「逆水松のチャシ跡」と「奔渡町裏山チャシ跡」、西側斜面の「松葉町裏山チャシ跡」の四か所が同じ時代に関連を持って機能していたといわれている。

  だが、肝心の山の上まで行ける道が見つからない。

 山沿いを歩いていくと少し高い位置にそれらしき谷間があり、手摺と階段がついていた。

 

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 杭には「史跡 松葉町裏山チャシ跡」の文字。奥には立ち入り禁止の看板があって小さいダムのようになっていた。弧状の壕を巡らせてあるというが確認できず。山の上までは行けないのかな、と思いつつ辺りを見渡すと、右手の木の間に枯葉を少し踏み分けた道がついているのを見つけた。やや急だったが登れないこともない。

 

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 雨が降った後で滑りやすかった。枝に掴まりながらならなんとか進んだ。

 

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 少し広く平らになっているところに出た。腐って倒れた木製の看板があった。

 

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  振り向くと厚岸の街に船首が突き出たような地形になっていた。湖や港を眺めるのに良さそうな場所だ。

 

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 細い道を辿ってさらに坂を登って行く。

 

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 登り切ると平らになっていて、厚岸湖を背景にお供え山の看板が立っていた。時刻はちょうど14時ころ。午後の日差しが眩しく、風は強く寒かったがこんなに気持ちのいい景色はそうない。

 

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パークゴルフか何かの看板)

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(?、何かの跡)

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 遠くに杭と看板が見えたので行ってみる。そこもチャシ跡(奔渡町裏山チャシ跡)であった。壕は濃い影を落としていた。まんじゅうのように盛られた土は一目見れば人工物の痕跡だとわかる。

 

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 背後が気になってふと振り返る。誰もいない。こんなに人がいないところに来たのはいつぶりだろう。クマでも出てきたらどうしようかと思って不安になり、大きい咳ばらいをしてみた。

 

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 (中央のくぼみは車が入ってくるための道)

 

 

 

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 「逆水松(さかおんこ)のチャシ跡」の看板が立っていた。この奥の森に町指定天然記念物の逆水松がある。樹齢約400年ともいわれ、厚岸のアイヌが阿寒と網走のアイヌと争いになり、留守を預かっていた老婆ツクニがこのチャシに立てこもり応戦するも防ぎきれず毒矢に倒れ、「我は死すともこの地を敵に渡さじ、神様何卒守り給え」と杖を地に突き刺したのが根を下ろした、という伝説がある。他にもいくつか伝説が残っているがいずれも誰かが突き刺した杖が出てくるという。道内の義経伝説には義経が放った矢や、地に突き立てた箸が大木になったという話もある。

  

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  木の間の道を歩き始めた瞬間、ガサガサーッと音がして、林の向こうの崖下に逃げ去るものがあった。どうもシカがいたらしい。

 

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(逆水松)

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 シカが下って行った林の向こうには厚岸湖に浮かぶ赤い社殿が見えた。この牡蠣島弁天神社は既に1791(寛政3)年の書物に記載があり、弁財天座像は1852(嘉永5)年に場所請負人山田文右衛門が奉納したものだという。

 

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 引き返し、来た道とはまた別の道の先へ。この辿ってきた細い道は、よく考えたら普段シカが歩いている獣道なのではないか?、と、ようやく気付いた。

 

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(奔渡町裏山チャシ跡を真横から見る。壕がよくわかる)

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 (ここは明らかに人が整備した道だ)

 

 

 

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(シカ!)

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 歩いていくと道の先に「お供山展望台」が見えた。すると右脇の林からまたもやシカが2匹3匹と続けて飛び出してきて、目の前を横切って左手の草むらへ入っていった。驚かせてしまったようで、なんだか申し訳ない。ここには人は誰もいないかもしれないが、シカはいる。それもけっこうな数いる。シカの生活を邪魔してしまっているんだなと感じた。なんとなく、「ごめんね~」などと言いながら展望台へ。

 

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 展望台の右手には牡蠣島弁天社が、左手には厚岸大橋があり周囲を見渡せる。厚岸の首長だったイコトイもこのあたりから対岸を眺めたことがあっただろうか。標津町のタブ山チャシ跡もここに劣らず大規模で、オホーツク海を見ると眼前に国後島、右手に野付半島が連なっていて、水道の様子を見るのに絶好の地形にあった。

 すぐ近くにもう一つチャシ跡がある。

 

 

 

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 その名も「鹿落しのチャシ跡」という。どうりでシカと会うわけだ。ここは狩りの時に崖にシカを追い落していたと伝えられ、骨も出土しているという。シカが食べたか誰が食べたか分からないが、牡蠣殻があった。新ひだか町静内のシャクシャインにも縁が深い「シベチャリチャシ」の壕の上にも橋が架かっていたのを思い出した。ここからだと厚岸大橋がほとんど真下に見えそうだ。

 

 帰り道がどこかわからないので、とりあえず見つけた道を進んでみる。柵が付いているので、これは人間が作った道のようだ。けっこうな急斜面を下っていく。

 

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 途中、階段はあったがかなり急で、しかもところどころ腐って壊れていた。引き返すわけにもいかず、息を殺しながらすばやく通り抜けた。無事下り終えた最後に「腐食により階段の一部破損している箇所がありますのでご注意願います」の張り紙が。最初にこれを見つけていたらきっと山の上まで登らなかっただろう。

 

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 15時ごろ、無事下山し厚岸大橋を渡って駅の方へ。次は海事記念館を見学する。

 

 3.海事記念館

 

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 海事記念館はその名の通り様々な漁の資料を中心に展示している。江戸時代のニシン漁、コンブ漁、鮭漁や、アサリ、昭和初期の捕鯨などについて。1850年に厚岸沖で座礁したイギリス籍のオーストラリア船イーモント号の残骸もあった。乗組員は救助され長崎経由で帰国したという。この船が出航した町とは姉妹都市提携が結ばれている。

 

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 二階へ。ちょうどプラネタリウム放映の時間だったので見てみた。秋の星座について勉強した。見上げた半球の空の端に描かれた街並みはちゃんと厚岸のそれだった。

 

 

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(渡舟場)

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(鯨の解体作業)

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 二階の一室は友好都市である山形県村山市のコーナーになっていた。村山市最上徳内の出身地である。最上徳内略年譜まで配布されていた。

  

 

 

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 一階には古い絵ハガキの特集コーナーがあった。

 

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 閉館の17時より前には海事記念館を出て、道の駅へ。名物の牡蠣を使ったお土産を物色。外はすごい強風が吹いていた。

 

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(寄れなかった牡蠣最中の店) 

 

 17時半には駅に向かい、17時56分発の電車で釧路へ戻った。へとへとで車内ではずっと寝ていた。

 19時前には釧路駅に到着。ホテルへ直行。次の日に備え、適当にスーパーで買った弁当を食べてはやめに就寝した。

 

 (終)

 

 

 

 

 

厚岸日記①

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(厚岸大橋) 

 

 

 厚岸に行ってきました。牡蠣が有名な町ですが、文化財も多くあります。以下の記述の一部は「北海道開拓と本願寺道路」(弥永芳子著、弥永北海道博物館、1994年)を参考にしています。

 

 

 

 目次

 

 1. 厚岸までの道のり

 2. 厚岸町郷土資料館

 3. 国泰寺

 4. 厚岸神社

 5. 昼食

 

 

 

 2017.11.11.

  

 1. 厚岸までの道のり

 

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 まず夜行バスで札幌から釧路へ。朝の5時過ぎに到着。大雨。先行きが心配になる。ひとまずバスセンターへ駆け込む。雨が落ち着いてから釧路駅の中へ行ってみる。まりもがいた。まりものいる阿寒湖で有名な阿寒町市町村合併釧路市の一部になっている(2005年~)。釧路駅内のセブンイレブンで朝食を買って食べ、風邪薬を飲んだ。外はだんだん晴れてきた。

 

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 厚岸までは8時18分発の根室行きワンマン列車で1時間ほど。大学生らしき男女のグループ4、5人の他、何人か乗って出発。途中の駅でも何人か乗降があった。

 小麦色の草原が風に揺れて広がっている様を眺めながら電車はすすむ。

 

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 急に海が目の前に現れた。太陽がまぶしい。向こうに島のようなものが見える。と、すぐ厚岸駅に到着。時刻は9時を少し過ぎたくらい。 ピンクの陸橋には「ようこそ花と味覚と 歴史のまち あっけし」の文字。盛りだくさんだ。駅構内にはこれから目指す国泰寺の葵の紋が刻まれた石もあった。代表的な観光地なのだろう。

 

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 この日はまず国泰寺と隣接する厚岸町郷土資料館に向かい、そのあと正行寺、時間があればチャシ跡を見て、最後に海事記念館を見学する計画だ。

  

 駅で国泰寺方面へ向かうバスの時間を尋ねたが、どうやら出発してしまったばかりのようだった。仕方なく歩いて向かうことにする。空は晴れているが、風がやたらと強く、雲行きは少し怪しい。

 厚岸はS字に入り組んだ湾を真っ赤な厚岸大橋がまたいでおり、海側が厚岸湾、その奥が厚岸湖となっている。街は橋を挟んで内陸側の湖北地区と対岸の湖南地区に分かれており、国泰寺などがあるのは湖南地区だ。JRの車内から見えた島影のようなものはおそらく対岸の湖南地区だったのだろう。

 駅前通りを左にまっすぐすすみ、商店や役場、後で見学する海事記念館を通り過ぎて厚岸大橋まで15分くらい。

 

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 (厚岸大橋の上から)

 

 橋の横にある港では海鳥がトラックの周りを飛び回っていた。肩にかけたカメラバッグが吹っ飛ばされそうになるくらいの強風が横から吹いてくる。まっすぐ進めない。小雨が降っているのか波の飛沫がかかっているのか分からない。橋を渡り終えると風が少し落ち着いてきた。

 

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 またまっすぐ歩いていく。普通の住宅に交じって古い商店が目につく。国泰寺通りというらしい。

 20分くらい歩いた突き当りを右に曲がると鳥居が見えた。国泰寺と並んで建っている厚岸神社であった。ここが第1の目的地。

 

 

 

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 2. 厚岸町郷土資料館

 

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 10時頃から、先に国泰寺に隣接する厚岸町郷土資料館を見る。入館料大人100円。寒くて古めかしい小さな建物だが、展示物は興味深い。続縄文時代の土器や、町内の遺跡から発掘された牡蠣殻、東蝦夷地の中でも最も古くからアイヌと交易が行われてきた「アッケシ場所」についての資料、幕末の北方探検の拠点となっていた厚岸を訪れた最上徳内近藤重蔵の紹介、国泰寺や神明宮(現・厚岸神社)の資料、近代の牡蠣の養殖に関する資料などが展示されていた。

 

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 (資料館内の様子)

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 (牡蠣殻)

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(1844年、フランス船が漂着した際の記録。場所支配人池田儀右衛門の子孫所蔵。)

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1855年から厚岸は仙台藩の警備区域になった。仙台藩士が奉納した絵馬)

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仙台藩士が残したらしき矢筒)

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 最上徳内は晩年のシーボルトとの交流も有名な探検家であり幕臣。「夷酋列像」に描かれた厚岸の首長イコトイの協力で1786年に国後島択捉島を検分し、初めてロシア人南下の詳細を調査している。1791年には厚岸に神明宮を建立(今の厚岸神社)。1805年には遠山景晋(遠山景元の父)に従い西蝦夷地を案内している。他にも数回蝦夷地、樺太に渡っている。

 近藤重蔵は幕府に蝦夷地の処置および異国境取り締まりについて建議を行い、1798年蝦夷地調査の任を受け、最上徳内らの上司として国後島から択捉島に渡り、大日本恵登呂府の木柱を択捉島丹根萌の丘に立てている他、数度蝦夷地を探検、各地に赴任している。国後島択捉島の探検によりアイヌキリスト教を信仰していることを知った重蔵が平取に建てた祠が現在の義経神社である。

 

 

 

 3. 国泰寺

 

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 国泰寺(臨済宗鎌倉五山派景雲山国泰寺)は江戸幕府が1804年に蝦夷地に3か所設置した寺院(蝦夷三官寺と呼ばれる)のひとつ。ロシアの南下に対し北方の警備にあたる諸藩兵や幕吏の葬礼や供養のため、また千島のアイヌキリスト教を信仰していたことへの対抗として仏教の布教や撫育を行うための施設だった。特に歴代住職による60年間に及ぶ記録「日鑑記」は当時を知る資料として貴重だ。

 

 国泰寺の山門は資料館のすぐ隣にある。境内は松の葉が散っていかにも寒々しい。建物自体は創建当時からのモノではないが、どこか風格が感じられた。山門のわきには「アイヌ民族弔魂碑」が。

 

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(仏牙舎利塔。1842年設置。場所請負人などの名前がびっしり彫られていた。)

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(本堂。中には地獄を描いた掛け軸や、米内光政、東久世通禧の筆らしき書が。)

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(境内のあちこちに葵の紋があった。)

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 本堂裏手の丘を上ると馬頭観音堂があり、その坂のさらに上に竜王殿があった。横には魚魂碑。すぐ近くに神明宮跡を示す看板があった。この丘の上に、かつてアイヌ撫育と教化のため最上徳内が神明宮を建て、後に近藤重蔵が改修した。

 

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(シカのフン?いっぱい落ちていた。)

 

 

 

  4. 厚岸神社

 

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 国泰寺のすぐ横に急な長い石段があり、それを登り切ると厚岸神社がある。もともと神明宮といい、さきほど訪れた竜王殿のあたりに、はじめ最上徳内が建立した。

 ここの狛犬は少し風化していてなかなかいい顔でいい体つきだ。「行幸記念」と台座にあり、昭和11年昭和天皇が北海道各地を巡幸した際奉納されたらしい。

 

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 近藤重蔵による碑文の碑とその現代語訳の看板があった。もとの碑はどこに行ったのだろうか?現在の碑は平成3年に厚岸神社鎮座200年を記念し復元されたらしい。神社の本殿の中には何枚かの絵馬や、「舩魂神」と書かれた扁額、最上徳内肖像画などがあった。

 

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 (神社から対岸を眺める)

 

 

 5.昼食

 

 12時前には厚岸神社を後にし、昼食タイム。といってもそんなにお店があるわけではない。来た道を戻りつつ目についた食堂に入る。クッキング食王様(?)とはなんだかこころ強いネーミングだ。 店内は半分は普通の民家のような、よく言えばアットホームな感じ。食事をしていると後から地元の人がぞくぞく入ってきた。

 

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 (皮かしわラーメン、750円)

 

 

 

 「クッキング食王様 かさ嶋 幸栄丸」の皮かしわラーメンは雑誌などで紹介されたこともあるそうで(店内にそれらしき記事も貼ってあった)、元は厚岸町内の玉川本店というお店からレシピを伝授された一品らしい。なんとウニがついてきた。普段はここまでたくさんのトッピングは付かないそうで、ラッキーだった。ラーメンは魚介系のスープかと思うが、鶏の油の甘味が強くでていた。鶏皮のコリコリとした食感が私の好み。人によっては少し脂っこく感じるかもしれない。エビやウニをラーメンにトッピングして食べるのは漁師町ならでは。大変贅沢だった。

 

 

 おなかもいっぱいになったところで、重要文化財の本堂がある正行寺に向かう。

 

 

 (へ続く)

 

 

 

  

 

ヨコハマトリエンナーレ2017の個人的感想②

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(BankARTstudioNYKから赤レンガ倉庫を見る)

 

 

  

 の続き。

 「BankARTLifeV 観光」と同時開催の「日産アートアワード2017」、ヨコトリの横浜赤レンガ倉庫1号館会場、「黄金町バザール2017」の一部について、特に気になった作品のみ感想をかきたい。

 

 

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 まずは移転が決まっているBankARTstudioNYKへ。二階では現代アートの登竜門的な「日産アートアワード2017」が開催されている。ファイナリスト5名の作品を展示。これはヨコトリの関連企画ではない。2名について軽く紹介。

 

 

 

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 石川竜一 「homework」(部分)

 

 石川竜一さんは生まれ育った沖縄で撮影した自分の暮らす部屋の写真と米軍機の写真をならべていた。まさに日常と地続きのところに基地問題がある、なんて敢えて言うのも野暮かもしれない。これをどう展開していくのか?

 

 

 

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 藤井光「日本人を演じる」 部分

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 藤井光「日本人を演じる」 部分

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  藤井光「日本人を演じる」 部分

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 藤井光「日本人を演じる」 部分

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 藤井光「日本人を演じる」 部分

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  藤井光「日本人を演じる」 部分

 

 

 

 やはりグランプリを受賞した藤井光さんの作品 「日本人を演じる」が別格の印象。

 タイトルは欧米の「帝国の視線」を「輸入」した日本人を演じる、という意味らしい。

(藤井さんのワークショップについて一部記載⇒ http://artscommons.asia/wp-content/uploads/2017/09/annual_2016-2017_2.pdf

 この作品は、いわゆる「人類館事件」をテーマとしたワークショップの記録である。

 男女十名ずつくらいの参加者の素性は明らかにされないが、多くは日本人と自認する黄色人種の人が集められたようだ。一人だけ日本で育ったけれど韓国人だと自認する女性がいた。人類館事件当時の新聞記事を読んでディスカッションしたり、「日本人っぽい」「日本人っぽくない」という順序で、参加者同士を並べ替えている様が撮影されている。当時のアイヌの演説を再演し演技指導する場面もあった。現代でも沖縄に対する差別が続いていることや、顔が濃いとされ日本人っぽくないとされがちな縄文人(をルーツに持つ人)こそがもとから日本に住んでいたのだから生粋の日本人である、ということなどが話されていた。どの参加者も真剣に考え発言している様がうかがえた。口論などはなく、面と向かってはっきりと差別的な言動をしている様は見受けられなかった(カットされていたのかもしれない)。

 古代から続いているともいえる日本の中のマイノリティ差別の問題について知識として深く掘り下げて反省するというよりは、ありもしない「日本人」という虚像を演じ、かつての振る舞いを真似ることで、改めてそれを無効化しようとするワークショップだったのだろうか。

 

 まずこの作品について言わなければならないのは、差別的な言動がヘイトスピーチSNSでの過剰な反応で可視化されている現在、このような題材で作品を作ることは大変意義深く、その点では受賞も納得であるということだ。こういう題材の作品がもっと増えてもいいし、こういうことにアーティストが関わっていかないでどうするのかとさえ思う。

 それはそれとして、疑問に思うところもあったので少し考えたい。

 このような一般人を集めてワークショップをした様子を撮影した作品の場合、参加者は自然とアートに何らかの関りをすでに持っていて知識もあり、ディスカッションにも積極的に参加し、しかも社会問題にも意識が高い人になってしまうと想像する。そのせいか分からないが、参加者の発言にどうしても「言わされている感」を覚えてしまった。タイトルの「演じる」は、まさか「意欲的で行儀のいい参加者」を演じる、という意味ではないだろう。この「言わされている感」をどう考えるべきか、それは横に置いておいていいのかどうか、という点がひとつ。

 ステートメントによれば、この作品が問うているのは「植民地主義と人種主義の統合という暴力の地下水脈が多様性を標榜する21世紀に枯渇しているのかいないのか」、ざっくりいえば「帝国主義は今日でも有効か」、というところだろう。そりゃあ無効なのに決まっているのだが、今の日本の様子を見ると自信をもってそうも言えないのがつらいところだ。人種差別に限らず様々な社会問題とそれに対する日本人の反応と現状をみるに、日本は少なくとも人権に関しては今もだいぶ後進国であると私は思っている。もしこの認識が正しいのだとすれば、作品で扱われている内容はあまりに繊細であり、民度が高く、現状から乖離しているという感想を抱く人もあるかもしれない。

 しかしそんなことは作家は百も承知だろう。おそらくこの作品はあくまでもひとつのケースとして捉えるのが妥当だ。たとえそれがどんなに狭い範囲の人々の限られた意見だったとしても、そうではなかったとしても、ひとつの現実を切り取ったものとしてこの作品は存在している。

 鑑賞者として、このワークショップの記録映像を見て何を感じ得るのかが本当に重要なことである。私は、周囲に気を使いながらワークショップをこなす「意欲的で行儀のいい参加者」を見て、あまりに映像が淡々としていたからだろうか、逆におぞましいヘイトスピーチも思い起こしていた。実は私は心のどこかで感情のぶつかり合いや罵詈雑言の応酬のような想定外の事故が起きることを期待していたのかもしれない。だからといってハプニングを欲するのは自分勝手で人を人とも思わない欲求であり、恐ろしいことである。

 一方で、その振る舞いに強く納得したのも事実である。面と向かって相手の意見に反対することは、勇気がいることであるし、それが抽象的な議論ならまだしも人間の出自などに関わることであれば(本来は)慎重になるのは当然である。その点リアリティを感じた。

 ワークショップの全貌が映像からではよく見えなかったので、ワークショップそのものについて検討することが難しかった反面、いつのまにか私はワークショップの参加者の振る舞いや気持ちについて想いを馳せてしまっていて、それはそれで面白かった。目立ったハプニングがないような、地味な振る舞いを肯定されるような気持ちにもなった。このような作品はどうしてもモヤモヤした感じが残ってしまうが、テーマの特性上仕方なことかもしれない。それを余韻として楽しみながらヨコトリのテーマとも関係づけて考えるのいいかもしれない。

 

 

 

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 関川航平 作品部分

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 関川航平 作品部分

 

 

 BankARTではほかに関川航平さんの作品、というかパフォーマンスの痕跡が気になった。色のついた粘土で壁になにやら文字が書かれている。どのようなパフォーマンスだったのだろうか。

 

 

 

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 ヨコトリ、横浜赤レンガ倉庫1号館に移動。ここは特に力が入った展示のように思った。

 

  

 

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 小沢剛 作品部分

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 小沢剛 作品部分

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  小沢剛 作品部分

 

 

 

 小沢剛は、フィクションを織り交ぜた音楽と絵画によって実在の人物の架空の伝記を物語る「帰って来た」シリーズの新作で、岡倉天心をテーマにした「帰って来たK.T.O」を発表。私は以前、藤田嗣治をテーマにした同シリーズの作品を見ている。

 失意のうちにインドを訪れた天心が、いつの間にか輪廻転生し、東日本大震災で流され消失した茨木県五浦にあった六角堂(現在は再建されている)に戻ってくるというストーリー?のようだった。藤田を題材にした作品よりもスケールが大きくなっているように感じた。会場がけっこう暗くて段差につまずきそうになったことが気になるが、絵画の大作が10点並ぶ様は壮観だった。絵のうしろに平櫛田中作の天心像が佇んでいた。

 

 

 

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 平櫛田中岡倉天心胸像」

 

 

 

 

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 クリスチャン・ヤンコフスキー「重量級の歴史」

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 クリスチャン・ヤンコフスキー 「公共の身体から人間的彫刻へ」

 

 

 

 クリスチャン・ヤンコフスキーはいずれの作品でも、彫刻に対して働きかけることで彫刻と人間の間に新しい関係性をもたらしているように見える。ユーモラスであり、悪ふざけのようなことを真面目にやっている。それなのに(それゆえに?)、彫刻がただのモノであることが鮮やかに暴露され、彫刻にモノ以上の何かを幻視させる芸術の不思議さが浮かび上がってくる。そういう芸術の不思議さを肯定するでもなく否定するでもなく扱う手際の良さに感動した。

 

 

 

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 宇治野宗輝 「プライウッド新地」 部分

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 プライウッドとは合板のこと。映像ではバナナ、ミキサーやエレキギターなどをめぐる関係が語られ、作品の背景が説明されている。特に「私はアメリカ経由の未来派だ」という言葉が印象的だ。しかし、会場に置かれた機械たちは説明を吹き飛ばさんばかりの勢いでまるで生命をもったように音をだし動き出す。不協和音一歩手前でありながら非常に魅力的な歌を聴かせてくれる。「コンセプトなんかどうでもいいから、俺の曲を聴いてくれ!」という叫びみたいな作品だった。

 

 

 

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 ドン・ユアン 作品部分

 

 

 ドン・ユアン区画整理のため解体されてしまう中国の伝統的な民家である祖母の家をモチーフとした絵画を、壁に展示するのではなくインスタレーションとして見せる。こうなると絵画としての技量よりも、なぜ絵画で、それも「オイル・オン・キャンバス」で記録されなければならなかったのか、ということの方に意識が向く。

 

 

 

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 小西紀行 作品部分

 

 

 

 小西さんの作品をまとめて見たのは初めて。言葉では説明しにくいのだが、以前から魅力的な絵画だと思っていた。今回の展示はインスタレーション風に、額を箱のようにしたり衝立のようにしたりして展示。その間を縫うように鑑賞した。核家族のような複数人のヒト型のモチーフは、作家が幼いころに撮影された家族や身近な人物の写真をもとにしているらしい。

 

 

 

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 ラグナル・キャルタンソン 「ザ・ビジターズ」 部分

f:id:kotatusima:20171031230149j:plain  ラグナル・キャルタンソン 「ザ・ビジターズ」 部分

 

 

 

 「ザ・ビジターズ」は、一つの大きな家のあちこちにいる音楽家たちが、ヘッドホンからの音を頼りに一つの曲を奏でようとする様を記録した作品。暗室になった会場ではそれぞれの持ち場に置かれた定点カメラからと全体を映すカメラのからの映像が投影され、あちらこちらから音が聴こえる状態だった。手探りながらもさすがプロの集団というべきか、緩急のあるハーモニーが生成されていく場を体験できるのは理屈抜きで気持ちのよいものだった。この有無を言わさぬ音楽の説得力、そしてそれをコミュニケーションのひとつの形として可視化させた作家の力量に脱帽した。

 

 

 

 黄金町バザールへ移動。全部は見られなかったが見た中から気になった作品をいくつか。

 

 

 

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 キュンチョメ 「ここでつくる新しい顔」

 

 

 目隠しをした難民と日本人の観客とが福笑いをしている手元を記録した作品である。会場にあったキャプションによれば、難民は次第に福笑いのプロになり、観客に的確に支持をだし修正を加え、顔を完成させるようになっていった。しかし観客はそうとは知らず無邪気にうまくできたものだと思い込み帰ることとなる。ホストとゲストの関係がこの暗闇では逆転していたのだ、と。
 非常におもしろい作品だと思うし、まさにホストとゲストの関係が逆転している点などその通りだと思うのだが、そこまでこの作品の意味をキャプションに詳細に書かれると、ちょっと鑑賞の楽しみが奪われたような気にもなる。

 

 

 

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 毒山凡太郎 「戦争は終わりました」(部分、パフォーマンスを行った場所の地図)

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f:id:kotatusima:20171031230229j:plain 毒山凡太郎 「戦争は終わりました」

 

 毒山凡太郎は台湾でかつて日本語教育を受けたお年寄りを訪ねて知っている日本語の歌を歌ってもらう様を記録した「君之代」と、沖縄の戦跡など各地で「もう、戦争は終わりましたよ!!!」と叫ぶ様を撮影した「戦争は終わりました」の、二つの映像作品を展示。私は以前第20回岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)の会場で毒山の別の作品を見たことがあり気になる作家だった。

 今日では親日国ともいわれる台湾に大日本帝国がどのような影響を及ぼしたのか、その功罪を問うともいえる「君之代」では、お年寄りたちはあまり躊躇する様子もなく(躊躇しているシーンはカットされたのかもしれないが)昔のことを話し、嬉々として歌う姿は孫に向けたビデオレターのようですらある。しかし口から出てくる軍歌などは時代を感じさせ、タイムカプセルを開けたような、しかも見てはいけないものを見てしまったような感じを覚えさせる。

 「戦争は終わりました」の舞台となった沖縄は、今日でも米軍の起こす事件事故が絶えない。どう考えても日本で一番「戦争が終わっていない」に違いない。そのような場所で「戦争は終わりました」と叫ぶのは皮肉としてはあまりに馬鹿正直で、嫌味すら感じる。この嫌味とは何か?

 パフォーマンスを行っているのは作家本人だろうが、ガマや、ひめゆりの塔の前や、今も座り込みなどが行われている基地前に、わざわざ出向いて「戦争は終わりました」と叫ぶことに葛藤はなかったのだろうか?あっただろうし、様々な視線を向けられただろう。沖縄に対して日々行われていることはまさに国家による暴力で、大変面倒な現在進行形の問題だが、それに関わっていこうとする姿勢は素晴らしい。しかし、この作品は、沖縄の人の感情を逆なでするようなことにしかならないのではないか、という危惧が拭えないのも正直な感想だ。

 と、ここまで考えて気が付いた。この作品で叫ばれる皮肉は、国家に対しての告発であり嫌味かもしれないが、同時に私たち他府県人にも向けられているのかもしれない。沖縄に対して私たち他府県人はあまりに当事者(加害者)であり過ぎる。私たちは、作家と同じ罪を犯していて、共犯者だからこそ妙に気になってしまう作品になっているのではないか。今後毒山はこの作品をどう発展させていくのか注目したい。

 

 

 

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 宇佐美雅浩 「結城幸司 北海道 2011」 

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  宇佐美雅浩 「結城幸司 北海道 2011」のキャプション

 

 

 

 宇佐美さんは様々な場所で大がかりな合成かと思わせるような写真を撮る。北海道で撮ったのは上の作品だ。見た目におもしろい作品だが、これに付随したキャプションにいくつか引っかかる点がある。

 まず「アイヌの後継者」というところ。アイヌは別に世襲制の役職でもなんでもない民族なので、結城さんにアイヌを代表させるような表現はそぐわないのではないか。

 また、「生粋のアイヌ人はいなくなってしまったというが」というところも引っかかる。この解説の筆者のいう「生粋のアイヌ人」とはどういった人を指すのだろうか?例えば結城さんは生粋のアイヌ人ではないのか?この写真に写った人々にはひとりも生粋のアイヌ人はいないのか?チセに住んで狩猟採集をしなければアイヌではないと?民族をさすのに「生粋」は適切な言葉ではない。純血か否かを問題にすることそのものがナンセンスであろう。

 また「文化は今も伝承されている」というところ。悪意を持って読めば「アイヌ人は居ないが文化だけはある」とも受け取れる書き方だ。その文化を受け継ぐ主体なしに文化は存在し得るだろうか?それはまさに博物館のガラスケースに収まった、過去の文化でなければあり得ない。そしてアイヌ文化はそのような文化ではないだろうし、そのような文化にしてはならない、と私は思う。

 作品がおもしろいだけに、このような解説で引っかかってしまうのは残念だ。反面教師として、専門的知識についてはきちんと専門家の力を借りることの大切さを痛感した。

 

 

 

 ヨコハマトリエンナーレ全体としては、当然と言えば当然のことながら、多くの作品が「島と星座とガラパゴス」「『接続性』と『孤立』」というテーマを念頭に置くと作品の意味がより感じられ、説得力を増していたと思う。こういうのをキュレーションと呼ぶのだろう。テーマそのもの、キュレーションそのものについての評価は私の手に余るが、キュレーション以前の、寄せ集めに無理やりテーマを付けたような展示を見ることの多い自分としては面白かった。個別の作品としては、作家の力の入れ具合も様々だったと思うが、以上に挙げたように何らかの感想を抱かせる作品は少なくなかった。ヨコトリ参加が初めてだったので、次回がまた楽しみである。

 

(終)