こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

ヨコハマトリエンナーレ2017の個人的感想②

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(BankARTstudioNYKから赤レンガ倉庫を見る)

 

 

  

 の続き。

 「BankARTLifeV 観光」と同時開催の「日産アートアワード2017」、ヨコトリの横浜赤レンガ倉庫1号館会場、「黄金町バザール2017」の一部について、特に気になった作品のみ感想をかきたい。

 

 

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 まずは移転が決まっているBankARTstudioNYKへ。二階では現代アートの登竜門的な「日産アートアワード2017」が開催されている。ファイナリスト5名の作品を展示。これはヨコトリの関連企画ではない。2名について軽く紹介。

 

 

 

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 石川竜一 「homework」(部分)

 

 石川竜一さんは生まれ育った沖縄で撮影した自分の暮らす部屋の写真と米軍機の写真をならべていた。まさに日常と地続きのところに基地問題がある、なんて敢えて言うのも野暮かもしれない。これをどう展開していくのか?

 

 

 

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 藤井光「日本人を演じる」 部分

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 藤井光「日本人を演じる」 部分

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  藤井光「日本人を演じる」 部分

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 藤井光「日本人を演じる」 部分

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 藤井光「日本人を演じる」 部分

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  藤井光「日本人を演じる」 部分

 

 

 

 やはりグランプリを受賞した藤井光さんの作品 「日本人を演じる」が別格の印象。

 タイトルは欧米の「帝国の視線」を「輸入」した日本人を演じる、という意味らしい。

(藤井さんのワークショップについて一部記載⇒ http://artscommons.asia/wp-content/uploads/2017/09/annual_2016-2017_2.pdf

 この作品は、いわゆる「人類館事件」をテーマとしたワークショップの記録である。

 男女十名ずつくらいの参加者の素性は明らかにされないが、多くは日本人と自認する黄色人種の人が集められたようだ。一人だけ日本で育ったけれど韓国人だと自認する女性がいた。人類館事件当時の新聞記事を読んでディスカッションしたり、「日本人っぽい」「日本人っぽくない」という順序で、参加者同士を並べ替えている様が撮影されている。当時のアイヌの演説を再演し演技指導する場面もあった。現代でも沖縄に対する差別が続いていることや、顔が濃いとされ日本人っぽくないとされがちな縄文人(をルーツに持つ人)こそがもとから日本に住んでいたのだから生粋の日本人である、ということなどが話されていた。どの参加者も真剣に考え発言している様がうかがえた。口論などはなく、面と向かってはっきりと差別的な言動をしている様は見受けられなかった(カットされていたのかもしれない)。

 古代から続いているともいえる日本の中のマイノリティ差別の問題について知識として深く掘り下げて反省するというよりは、ありもしない「日本人」という虚像を演じ、かつての振る舞いを真似ることで、改めてそれを無効化しようとするワークショップだったのだろうか。

 

 まずこの作品について言わなければならないのは、差別的な言動がヘイトスピーチSNSでの過剰な反応で可視化されている現在、このような題材で作品を作ることは大変意義深く、その点では受賞も納得であるということだ。こういう題材の作品がもっと増えてもいいし、こういうことにアーティストが関わっていかないでどうするのかとさえ思う。

 それはそれとして、疑問に思うところもあったので少し考えたい。

 このような一般人を集めてワークショップをした様子を撮影した作品の場合、参加者は自然とアートに何らかの関りをすでに持っていて知識もあり、ディスカッションにも積極的に参加し、しかも社会問題にも意識が高い人になってしまうと想像する。そのせいか分からないが、参加者の発言にどうしても「言わされている感」を覚えてしまった。タイトルの「演じる」は、まさか「意欲的で行儀のいい参加者」を演じる、という意味ではないだろう。この「言わされている感」をどう考えるべきか、それは横に置いておいていいのかどうか、という点がひとつ。

 ステートメントによれば、この作品が問うているのは「植民地主義と人種主義の統合という暴力の地下水脈が多様性を標榜する21世紀に枯渇しているのかいないのか」、ざっくりいえば「帝国主義は今日でも有効か」、というところだろう。そりゃあ無効なのに決まっているのだが、今の日本の様子を見ると自信をもってそうも言えないのがつらいところだ。人種差別に限らず様々な社会問題とそれに対する日本人の反応と現状をみるに、日本は少なくとも人権に関しては今もだいぶ後進国であると私は思っている。もしこの認識が正しいのだとすれば、作品で扱われている内容はあまりに繊細であり、民度が高く、現状から乖離しているという感想を抱く人もあるかもしれない。

 しかしそんなことは作家は百も承知だろう。おそらくこの作品はあくまでもひとつのケースとして捉えるのが妥当だ。たとえそれがどんなに狭い範囲の人々の限られた意見だったとしても、そうではなかったとしても、ひとつの現実を切り取ったものとしてこの作品は存在している。

 鑑賞者として、このワークショップの記録映像を見て何を感じ得るのかが本当に重要なことである。私は、周囲に気を使いながらワークショップをこなす「意欲的で行儀のいい参加者」を見て、あまりに映像が淡々としていたからだろうか、逆におぞましいヘイトスピーチも思い起こしていた。実は私は心のどこかで感情のぶつかり合いや罵詈雑言の応酬のような想定外の事故が起きることを期待していたのかもしれない。だからといってハプニングを欲するのは自分勝手で人を人とも思わない欲求であり、恐ろしいことである。

 一方で、その振る舞いに強く納得したのも事実である。面と向かって相手の意見に反対することは、勇気がいることであるし、それが抽象的な議論ならまだしも人間の出自などに関わることであれば(本来は)慎重になるのは当然である。その点リアリティを感じた。

 ワークショップの全貌が映像からではよく見えなかったので、ワークショップそのものについて検討することが難しかった反面、いつのまにか私はワークショップの参加者の振る舞いや気持ちについて想いを馳せてしまっていて、それはそれで面白かった。目立ったハプニングがないような、地味な振る舞いを肯定されるような気持ちにもなった。このような作品はどうしてもモヤモヤした感じが残ってしまうが、テーマの特性上仕方なことかもしれない。それを余韻として楽しみながらヨコトリのテーマとも関係づけて考えるのいいかもしれない。

 

 

 

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 関川航平 作品部分

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 関川航平 作品部分

 

 

 BankARTではほかに関川航平さんの作品、というかパフォーマンスの痕跡が気になった。色のついた粘土で壁になにやら文字が書かれている。どのようなパフォーマンスだったのだろうか。

 

 

 

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 ヨコトリ、横浜赤レンガ倉庫1号館に移動。ここは特に力が入った展示のように思った。

 

  

 

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 小沢剛 作品部分

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 小沢剛 作品部分

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  小沢剛 作品部分

 

 

 

 小沢剛は、フィクションを織り交ぜた音楽と絵画によって実在の人物の架空の伝記を物語る「帰って来た」シリーズの新作で、岡倉天心をテーマにした「帰って来たK.T.O」を発表。私は以前、藤田嗣治をテーマにした同シリーズの作品を見ている。

 失意のうちにインドを訪れた天心が、いつの間にか輪廻転生し、東日本大震災で流され消失した茨木県五浦にあった六角堂(現在は再建されている)に戻ってくるというストーリー?のようだった。藤田を題材にした作品よりもスケールが大きくなっているように感じた。会場がけっこう暗くて段差につまずきそうになったことが気になるが、絵画の大作が10点並ぶ様は壮観だった。絵のうしろに平櫛田中作の天心像が佇んでいた。

 

 

 

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 平櫛田中岡倉天心胸像」

 

 

 

 

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 クリスチャン・ヤンコフスキー「重量級の歴史」

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 クリスチャン・ヤンコフスキー 「公共の身体から人間的彫刻へ」

 

 

 

 クリスチャン・ヤンコフスキーはいずれの作品でも、彫刻に対して働きかけることで彫刻と人間の間に新しい関係性をもたらしているように見える。ユーモラスであり、悪ふざけのようなことを真面目にやっている。それなのに(それゆえに?)、彫刻がただのモノであることが鮮やかに暴露され、彫刻にモノ以上の何かを幻視させる芸術の不思議さが浮かび上がってくる。そういう芸術の不思議さを肯定するでもなく否定するでもなく扱う手際の良さに感動した。

 

 

 

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 宇治野宗輝 「プライウッド新地」 部分

f:id:kotatusima:20171031225927j:plain  宇治野宗輝 「プライウッド新地」 部分

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f:id:kotatusima:20171031225839j:plain  宇治野宗輝 「プライウッド新地」 部分

 

 

 

 プライウッドとは合板のこと。映像ではバナナ、ミキサーやエレキギターなどをめぐる関係が語られ、作品の背景が説明されている。特に「私はアメリカ経由の未来派だ」という言葉が印象的だ。しかし、会場に置かれた機械たちは説明を吹き飛ばさんばかりの勢いでまるで生命をもったように音をだし動き出す。不協和音一歩手前でありながら非常に魅力的な歌を聴かせてくれる。「コンセプトなんかどうでもいいから、俺の曲を聴いてくれ!」という叫びみたいな作品だった。

 

 

 

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 ドン・ユアン 作品部分

 

 

 ドン・ユアン区画整理のため解体されてしまう中国の伝統的な民家である祖母の家をモチーフとした絵画を、壁に展示するのではなくインスタレーションとして見せる。こうなると絵画としての技量よりも、なぜ絵画で、それも「オイル・オン・キャンバス」で記録されなければならなかったのか、ということの方に意識が向く。

 

 

 

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 小西紀行 作品部分

 

 

 

 小西さんの作品をまとめて見たのは初めて。言葉では説明しにくいのだが、以前から魅力的な絵画だと思っていた。今回の展示はインスタレーション風に、額を箱のようにしたり衝立のようにしたりして展示。その間を縫うように鑑賞した。核家族のような複数人のヒト型のモチーフは、作家が幼いころに撮影された家族や身近な人物の写真をもとにしているらしい。

 

 

 

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 ラグナル・キャルタンソン 「ザ・ビジターズ」 部分

f:id:kotatusima:20171031230149j:plain  ラグナル・キャルタンソン 「ザ・ビジターズ」 部分

 

 

 

 「ザ・ビジターズ」は、一つの大きな家のあちこちにいる音楽家たちが、ヘッドホンからの音を頼りに一つの曲を奏でようとする様を記録した作品。暗室になった会場ではそれぞれの持ち場に置かれた定点カメラからと全体を映すカメラのからの映像が投影され、あちらこちらから音が聴こえる状態だった。手探りながらもさすがプロの集団というべきか、緩急のあるハーモニーが生成されていく場を体験できるのは理屈抜きで気持ちのよいものだった。この有無を言わさぬ音楽の説得力、そしてそれをコミュニケーションのひとつの形として可視化させた作家の力量に脱帽した。

 

 

 

 黄金町バザールへ移動。全部は見られなかったが見た中から気になった作品をいくつか。

 

 

 

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 キュンチョメ 「ここでつくる新しい顔」

 

 

 目隠しをした難民と日本人の観客とが福笑いをしている手元を記録した作品である。会場にあったキャプションによれば、難民は次第に福笑いのプロになり、観客に的確に支持をだし修正を加え、顔を完成させるようになっていった。しかし観客はそうとは知らず無邪気にうまくできたものだと思い込み帰ることとなる。ホストとゲストの関係がこの暗闇では逆転していたのだ、と。
 非常におもしろい作品だと思うし、まさにホストとゲストの関係が逆転している点などその通りだと思うのだが、そこまでこの作品の意味をキャプションに詳細に書かれると、ちょっと鑑賞の楽しみが奪われたような気にもなる。

 

 

 

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 毒山凡太郎 「戦争は終わりました」(部分、パフォーマンスを行った場所の地図)

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f:id:kotatusima:20171031230229j:plain 毒山凡太郎 「戦争は終わりました」

 

 毒山凡太郎は台湾でかつて日本語教育を受けたお年寄りを訪ねて知っている日本語の歌を歌ってもらう様を記録した「君之代」と、沖縄の戦跡など各地で「もう、戦争は終わりましたよ!!!」と叫ぶ様を撮影した「戦争は終わりました」の、二つの映像作品を展示。私は以前第20回岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)の会場で毒山の別の作品を見たことがあり気になる作家だった。

 今日では親日国ともいわれる台湾に大日本帝国がどのような影響を及ぼしたのか、その功罪を問うともいえる「君之代」では、お年寄りたちはあまり躊躇する様子もなく(躊躇しているシーンはカットされたのかもしれないが)昔のことを話し、嬉々として歌う姿は孫に向けたビデオレターのようですらある。しかし口から出てくる軍歌などは時代を感じさせ、タイムカプセルを開けたような、しかも見てはいけないものを見てしまったような感じを覚えさせる。

 「戦争は終わりました」の舞台となった沖縄は、今日でも米軍の起こす事件事故が絶えない。どう考えても日本で一番「戦争が終わっていない」に違いない。そのような場所で「戦争は終わりました」と叫ぶのは皮肉としてはあまりに馬鹿正直で、嫌味すら感じる。この嫌味とは何か?

 パフォーマンスを行っているのは作家本人だろうが、ガマや、ひめゆりの塔の前や、今も座り込みなどが行われている基地前に、わざわざ出向いて「戦争は終わりました」と叫ぶことに葛藤はなかったのだろうか?あっただろうし、様々な視線を向けられただろう。沖縄に対して日々行われていることはまさに国家による暴力で、大変面倒な現在進行形の問題だが、それに関わっていこうとする姿勢は素晴らしい。しかし、この作品は、沖縄の人の感情を逆なでするようなことにしかならないのではないか、という危惧が拭えないのも正直な感想だ。

 と、ここまで考えて気が付いた。この作品で叫ばれる皮肉は、国家に対しての告発であり嫌味かもしれないが、同時に私たち他府県人にも向けられているのかもしれない。沖縄に対して私たち他府県人はあまりに当事者(加害者)であり過ぎる。私たちは、作家と同じ罪を犯していて、共犯者だからこそ妙に気になってしまう作品になっているのではないか。今後毒山はこの作品をどう発展させていくのか注目したい。

 

 

 

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 宇佐美雅浩 「結城幸司 北海道 2011」 

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  宇佐美雅浩 「結城幸司 北海道 2011」のキャプション

 

 

 

 宇佐美さんは様々な場所で大がかりな合成かと思わせるような写真を撮る。北海道で撮ったのは上の作品だ。見た目におもしろい作品だが、これに付随したキャプションにいくつか引っかかる点がある。

 まず「アイヌの後継者」というところ。アイヌは別に世襲制の役職でもなんでもない民族なので、結城さんにアイヌを代表させるような表現はそぐわないのではないか。

 また、「生粋のアイヌ人はいなくなってしまったというが」というところも引っかかる。この解説の筆者のいう「生粋のアイヌ人」とはどういった人を指すのだろうか?例えば結城さんは生粋のアイヌ人ではないのか?この写真に写った人々にはひとりも生粋のアイヌ人はいないのか?チセに住んで狩猟採集をしなければアイヌではないと?民族をさすのに「生粋」は適切な言葉ではない。純血か否かを問題にすることそのものがナンセンスであろう。

 また「文化は今も伝承されている」というところ。悪意を持って読めば「アイヌ人は居ないが文化だけはある」とも受け取れる書き方だ。その文化を受け継ぐ主体なしに文化は存在し得るだろうか?それはまさに博物館のガラスケースに収まった、過去の文化でなければあり得ない。そしてアイヌ文化はそのような文化ではないだろうし、そのような文化にしてはならない、と私は思う。

 作品がおもしろいだけに、このような解説で引っかかってしまうのは残念だ。反面教師として、専門的知識についてはきちんと専門家の力を借りることの大切さを痛感した。

 

 

 

 ヨコハマトリエンナーレ全体としては、当然と言えば当然のことながら、多くの作品が「島と星座とガラパゴス」「『接続性』と『孤立』」というテーマを念頭に置くと作品の意味がより感じられ、説得力を増していたと思う。こういうのをキュレーションと呼ぶのだろう。テーマそのもの、キュレーションそのものについての評価は私の手に余るが、キュレーション以前の、寄せ集めに無理やりテーマを付けたような展示を見ることの多い自分としては面白かった。個別の作品としては、作家の力の入れ具合も様々だったと思うが、以上に挙げたように何らかの感想を抱かせる作品は少なくなかった。ヨコトリ参加が初めてだったので、次回がまた楽しみである。

 

(終)

ヨコハマトリエンナーレ2017の個人的感想①

 

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 「ヨコハマトリエンナーレ2017-島と星座とガラパゴスー」(以下横トリ)に行った。同時開催の「BankARTLifeV 観光」や「黄金町バザール2017」の一部も見てきた。横浜には何度も来ているが、トリエンナーレ鑑賞は今回が初めて。

 

 「島と星座とガラパゴス」というテーマについて考えたり、札幌国際芸術祭のテーマにも出てくる「星座」という単語についての比較や、奥能登国際芸術祭など他の芸術祭との相違について考えたりなどしてみたいが、なかなか時間もないし手に負えない。

 自分はつくづく一言居士なのだと思う。

 忘れないうちにとりあえず印象に残った作品だけでも感想を書いておきたい。

 

 

 

 

 高島平駅から外へ出る途中、竹橋駅のように壁にシールが貼られていたのを見た。これはトリエンナーレの作品でもなんでもない。補修する箇所を示しているものらしい。

 

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 まず横浜美術館へ。屋外にもたくさん作品があった。横トリでは各作家やグループのスペースそれぞれに、個展やグループ展のようにタイトルがつけられていたのが特徴的だった。

 

 

・ミスター

 はじめの方にあったミスター(Mr.)の作品が良かった。展示全体のタイトルは「ごめんなさい」。

 

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 ミスター 展示の様子

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 これは柱の高い位置についていた。クッション?

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 ドローイングに山田うどんが!!

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 ミスターさんの作品は高橋コレクションなどで数点見ていたが、たくさん見るのは初めて。参加理由は、日本独自の進化を遂げた「ガラパゴス」なオタクカルチャーを作品化しているから、らしい。なんか納得できるようなできないような・・・。テーマとの絡みは別として、とても良かった。ちゃんと絵を描いている。うまく説明できないが、とにかくドローイングの一枚でも欲しくなった。ミスターさんの作品をグッズ化したものが少ないのが解せない。

 

 

 

 

・ ケイティ・パターソン

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 ケイティ・パターソン 「すべての死んだ星」

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 ケイティ・パターソン 「化石のネックレス」

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 ケイティ・パターソン 展示の様子

 

 

 

 「化石のネックレス」は進化の過程に沿って繋がれた170個の化石からできたネックレス。化石と言えば、生き物が生きていた当時の姿を復元するもとのもので、どれだけきれいに残っているかばかり気にしてしまうが、そもそも化石は石なのであり、大胆にも丸く加工し、生き物の進化の歴史を凝縮して見せたのはささやかな展示との落差が圧巻。「すべての死んだ星」は過去に観測された超新星の天球図。分かりにくい表現であり、ただの図示だがネックレスとともに見せられるとハッとする。

 

 

 

 

・ロブ・プルイット

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 ロブ・プルイット 展示の様子

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ロブ・プルイット 「オバマ・ペインティング」

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オバマ・ペインティング」部分

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ロブ・プルイット 「スタジオ・カレンダー」

 

 

 

 作品としてオークションを開催していたロブ・プルイット。『スタジオ・カレンダー』はついつい見入ってしまい、自分の知っている人物を見つけて喜んだりでき面白いのだが、それより『オバマ・ペインティング』が印象深かった。日本で感じるよりずっと、アメリカにとってオバマという大統領の存在は重大な出来事だったのだろうと想像する。

 

 

 

・ザ・プロペラ・グループ

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 ザ・プロペラ・グループ 左から「映画『タイタニック』のジャック・ドーソンに扮するレーニン」「映画『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』のフランク・ウィーラーに扮するレーニン」「映画『インセプション』のコブに扮するレーニン」

 

 

 

 かつてロシアで掲げられていたレーニン像に加筆したものだろうか。ユーモアが感じられ、まぁ悪い作品ではないと思う。それより、これがもし毛沢東だったら、もし昭和天皇だったら、などと考えてみたりもできる。そういえば、小泉明郎の「空気」という作品もあった。

 

 

 

畠山直哉

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 畠山直哉 展示の様子

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 畠山直哉 「テリル」より20点のうち

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畠山直哉 「テリル」より20点のうち

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 畠山直哉 「陸全高田市高田町 2012年6月23日」 部分

 

 

 

 畠山さんの「テリル」は北フランスで撮影されたらしいが、私にはどこか北海道の景色に似ていると感じられ妙に懐かしかった。立坑のある風景など北海道のあちこちで見られる。陸全高田のパノラマ写真もおもしろい展示。 

 

 

 

・マウリツィオ・カテラン

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 マウリツィオ・カテラン 「スペルミニ」

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 ここ以外にも作家本人の人形を高い位置からつりさげた作品もあった。いわゆる「インスタ映え」する作品の一つだろう。この作品については、写真を撮るといっぱい顔認証されるのが妙に可笑しかった。

  

 

 

・木下晋

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 木下晋 「合唱図・懺悔」

 

 

 

 木下晋さんの作品も何度も本では目にしていたが現物を見るのはたぶん初めて。昨年、瀬戸内の大島(ハンセン病の療養所がある島、レポート⇒香川日記③ 瀬戸内国際芸術祭2016 大島 - こたつ島ブログ)に行ったせいもあり、今回特に見ることができてよかった作品のひとつ。写真だとあまり分からないが、これ実は見上げるほど大きいのだ。

 

 

 

 ・ハイネ(サム・デュラントのスペース内)

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 伝 ペーター・B・W・ハイネ 「ペルリ提督横浜上陸の図」

 

 

 

 サム・デュラントのペリー来航をモチーフにした作品の横に、ハイネの油絵が飾られるのはさすがといったところ。この絵は教科書で目にした人も多かろう。でも一緒に川上澄夫の南蛮船の版画まで飾るのは行き過ぎのような気がしないでもない。微妙に意味合いがずれているように感じる。

  

  

  

 ・マーク・フスティ二アーニ

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 マーク・フスティ二アーニ 「トンネル」

 

 鏡を使ったトリックで奥行があるように見えるのだろうが、とても迫力がある。気が付いたら写真を撮ってしまっている。

 

 

 

・ザオ・ザオ

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 ザオ・ザオ 「プロジェクト・タクラマカン」(インスタレーションの一部)

 

 

 

 民族問題の舞台となる砂漠のど真ん中にわざわざ冷蔵庫を運んでビールを飲む「プロジェクト・タクラマカン」は、見るからに大掛かりな過程とビールを飲むという落差は馬鹿馬鹿しさの域を超えて凄みが感じられた。これがいい作品なのかただの無駄遣いなのかはちょっと分からない。それは紙一重の差なのかもしれない。

 

 

 

 横浜美術館会場の終盤には、公開対話シリーズ「ヨコハマラウンド」の動画などがあった。その他、why is ~ で検索した世界の国々の検索結果一覧のパネルや、ずっと見たかった風間サチコによる「ぼんやり階級ハンコ」(いくつかは実際に捺して持ち帰ることができる)が印象に残っている。

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 風間サチコ 「ぼんやり階級ハンコ」 

 

 

 同じ日には横浜開港記念会館の柳幸典の展示を見た。ここは岡倉天心生誕の地でもある。

 地下の会場をうまく使ってはいるが昨年BankARTで行われた個展の一部を再構成したような感じだった。作品としては悪くないと思うので、昨年の個展を見ていない人は見たらいい。 

 

 

 

 へ続く。

珠洲日記 あるいは奥能登国際芸術祭での見聞 ① 

 

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 目次 

 1.芸術祭概要

 2.珠洲までの道のり

 3.宿にて

 

 1.芸術祭概要

 

 「奥能登国際芸術祭2017 Oku-Noto Triennale2017 」に行ってきた。能登半島の先端に位置する石川県珠洲市で、今年初めて開催される。 Triennaleだから次回以降三年に一度の開催を見越しているのだろう。総合ディレクターは北川フラムである。他の芸術祭とはもちろん、すでに北川フラムが手掛けた越後妻有や瀬戸内の芸術祭との違いも気になるところだ。会期は2017年9月3日~10月22日。11の国と地域から39組が参加する。

 

 (芸術祭公式ページ:奥能登国際芸術祭2017

 

 

 芸術祭チラシなどには副題?として「最涯(さいはて)の芸術祭、美術の最先端」とあり、「古くから海と陸の交流が盛んに行われ、特異な文化が育まれた珠洲は、地理的に孤立していることから、日本文化の源流ともいうべき昔ながらの暮らしや風習が今でも残る町」で、「”忘れられた日本”がそこにあります」ともある。また芸術祭は「国内外から参加するアーティストと奥能登地域に眠るポテンシャルを掘り起こし、日本の”最涯”から”最先端”の文化を創造する試み」だそうだ。ホームページには北川フラムによるもう少し詳しい概要説明がある。(芸術祭概要 | 奥能登国際芸術祭2017

 

 この文章の「最涯」「忘れられた」という言葉は明らかに中央ありきのものだし、珠洲の住民のため何かするというよりは、観光客のためにこの芸術祭は開かれ、「最先端」に敏感な観光客にアピールしていることは明白である。いわゆるアートツーリズムと言って差し支えないだろう。このことは悪いと言われがちだが、一方で事の是非は何より住民が決めるべきことだ、とも私は思う。

 すでにこの概要説明で引っかかるところはいくつかある。もしその中からひとつだけ指摘するなら、この「日本文化の源流」という言い方だ。これには注意が必要だと思う。

 確かに珠洲はかつて北前船などの海運で栄え、現在は交通が陸運中心になったがため孤立させられてしまった地域で、その閉鎖性が古い風習を廃れさせなかった面もあるのだろう。

 私は芸術祭に行く前に、網野善彦著「海から見た日本史像ー奥能登地域と時国家を中心として」(河合ブックレット)を読んでいた。この本は、農耕民族としての日本人像の中で例外的な存在であった奥能登の人々の生業と文化の存在について書いてあって大変興味深い。

  私は、その奥能登の文化を「日本」という大雑把なくくりに入れてしまうことで見失うものはないだろうかと考えてしまうのだ。もちろん、厳密さを欠いたとしても日本中から観光客を呼ぶのに日本というくくりを持ち出して訴えかけるのは手法として理解できなくはない。また、日本やアジア、あるいは世界全体の文化の中での奥能登の文化の位置を考えることは重要だろう。

 私が危惧しているのは、事実とかけ離れたレベルで、地域固有の文化に対し日本という大きなくくりによって勝手に感情移入するような振る舞いがアートツーリズムの名のもとに行われることである。それは文化の搾取であり間接的な破壊につながるのではないか。

 「源流」という言葉も「大河のような文化の発展の流れの元になるひとつ」という意味とも読めるが、はたしてその喩えが適切なのかどうか、大いに疑問である。

 

 

 

  2.珠洲までの道のり

 

 小言はこのくらいにして、まずは珠洲に辿り着くまでのことを書きたい。一人旅が常の私としては例外的に、今回は知り合いのグループの旅行に付いて行かせてもらった。

 

 

 2017.9.10.

 

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 朝11時くらいに自宅をでたが、さっそくトラブルが。キャリーバッグのタイヤがやたら重いと思ったらなんと動いていないのだ!!よく見ると四つのうち二つが車軸にくっついてダメになっていた。二つは動くのでなんとか持ち運びはできた。不幸中の幸い?

 

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 羽田空港から能登空港(愛称・のと里山空港)までの空の旅。天気は晴れ。飛行機は定刻どおりほぼ15時頃、出発。眼下は雲だらけで富士山は拝めなかった。

 

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 (荷物の返却場所にも「スズ」のロゴが)

 

 一時間ほどで到着。 小さい空港の周囲には建物が見当たらず、道路の他には森しか見えない。やはり芸術祭の幟が立っている。 バスはふるさとタクシーといって予約制のもの。宿まで直行で1300円。16時15分に出発。一時間くらいの道のりは森の中をあがったりさがったりしながら走っていく。

 

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(途中通った能登町には真脇遺跡という縄文の遺跡があり、「真脇式」という土器は関東から東北までで見つかっているという。http://www.mawakiiseki.jp/survival%20-%20p.html

 

 里山また里山という風景だった。なんという木か分からないが尖った木が切り揃えたように山に密集している。

 

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  時折、山間に午後の強い日差しに照らされた黄金色の田んぼが見えた。ある田んぼでは何かを燃やしていて、その煙の匂いが一瞬バスの中にも匂ったのが印象的だった。

 

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 バスはいつの間にか珠洲市へ入っていた。町を抜け、田んぼを横に見ながら進むとだんだん山深くなっていく。山の上に風車がいくつか立っているのを見た。急な坂を下るとパッと視界が開け海に出た。塩田の並ぶ浜辺を走って行く。

 

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 3.宿にて

 

 17時過ぎに大谷という地区にあるゲストハウスに到着。ここでは猫を飼っている。窓辺に座って我々を迎えてくれた。

 

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 荷物を置きしばし海で遊ぶ。貝殻を拾ったり、テトラポットと戯れたり。ハングルで何か書かれたペットボトルやポリタンクも見つけた。海の向こうは朝鮮半島なのだと実感する。

 静かに波はそよぎ、夕日は私たちの到着に合わせたように眩しく沈みつつあった。

 

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 18時半頃から夕食。トビウオのフライに大浜大豆の豆腐に塩田の塩など。地元産の食材尽くしがうれしい。 宿のすぐ近くの港ではサザエがざっくざく採れるらしい。 バター醤油でいただく。

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 23時前に就寝。

 

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 ②に続く。

 

札幌国際芸術祭2017(SIAF2017)見聞⑦

 

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の続き。もうこの日はほとんど芸術祭に関係する展示は見ていない。エピローグ的な記事だと思ってもらえれば。

 

 目次

 

 1.円山公園

 2.宮永亮「RECIPROCAL」

 3.東方悠平「ガーデニング

 4.相原信洋作品上映会など

 

 

  

 8月19日

 

 1.円山公園

 

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 朝から再び円山動物園へ。SIAFの展示を見るのではなくて、動物園内の科学館ホールでやっていた外来種の展示(参照→の目次3.)をもう一度見るためだ。じっくり見られた。途中、円山公園で「コタンペップロジェクト」(空間デザイン:五十嵐淳)の看板を見かけた。これはクチャ(アイヌの仮小屋、たぶん狩りの時に使うようなやつ)を模した小さいテントを貸し出してくれるイベントらしい。

 

 

 

 2.宮永亮「RECIPROCAL」

 

(参考→宮永亮 個展「Reciprocal」 – GUEST HOUSE & GALLERY PROJECT SAPPORO ARTrip

 

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 歩いてギャラリー門馬へ。宮永亮「RECIPROCAL」が開催されている。これはSIAFとは関係ない展示だが、前回の2014年のSIAFでは宮永の作品も展示されていた。

 

 このReciplocalとは逆数(掛け合わされると1になる数)のことであり、「相互関係の」「互恵的な」という意味の形容詞でもあるそうだ。現在非常にありふれたメディウムである実写映像はモンタージュで編集や構成をなされたものが一般的であり、それはプロパガンダ的手法でもあったのだが、宮永が用いる実写映像をレイヤー構造として提示する手法においては、被写体と被写体のカットの繋がりによって万人に作者の設定したある主題を伝えようとする意図は機能せず、見る人の数だけの受け取り方が存在するのだ、という。本展においては素材と素材の関りによって生まれてくる感覚や解釈を1として喩えている。

 だいたい以上のようなことがフライヤーには書いてあった。

 また作家プロフィール欄には、映像素材をスーパーインポーズ(映像に他の映像を重ね合わせる手法)によって、モンタージュによる時間軸に対しレイヤー構造という軸を持ち込み、新たに合成されるナラティブの枝を作品内に現出させようとし、時間芸術の中での非時間性を模索している、というようなことも載せてあった。

 

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 会場では5つの作品を展開。複数のプロジェクターで複数の映像を同じ壁面に投影したり、画面内で別々の映像をスーパーインポーズによって重ねながら移り変わらせたりしている。田んぼ、街中の壁、林、車窓からの風景、旗などが映され、滑らかでくっきりはっきりした見やすい映像が移り変わる様は視覚を楽しませるに十分だ。

 

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 そもそもモンタージュとは映像や写真の断片を組み合わせて一つの場面を構成することを指す。宮永はスーパーインポーズによってモンタージュのもつ力に対抗しようとしているのだろう。映像が持っているプロパガンダ的な力、言い換えれば特定の主義主張を信じ込ませてしまうような力を、宮永のつくる「見る人の数だけの受け取り方が存在する」映像によって、脱臼させようとしているように思える。実際に私が今回の展示を見た感想としては、作品から特定の主義主張を読み取ることは難しかった、とはいえる。では、宮永の試みは成功しているのか。「映像の重ね合わせ」によってできた宮永作品は、プロパガンダ的映像を脱臼させ、「見る人の数だけの受け取り方が存在する」のか。私はそうは思わない。

 私は感想として「特定の主義主張は読み取れなかった」と述べた。それはその通りなのだが、そのかわりまったく何も読み取れなかったのである。映像に対する何らかの解釈は生まれなかったのである。「ナラティブの枝」なるものは鑑賞者の心のうちに現出するのかもしれないが、あまりに断片すぎ、枝葉末節であり過ぎてそこから芽を伸ばしていくことは難しいのではないだろうか。

 映像のごくごく基本的な特性として、受動的なメディアであり思考が次々押し寄せる映像に流されてしまうことがあると思うが、宮永作品はまさにそうで、鑑賞中は田んぼが映れば「ああきれいだな」と思うし、ビルが映れば「ああこういう風景どこかでみたかも」とは思うのだが、その総体がある程度まとまった形で心に残ることはなかった。あれほど美しい映像を立て続けに見て、しかしそれが記憶に残らないのはわざわざ作品を見に行った自分としてもショックである。

 強いて言えば、「この映像は何か主義主張をするわけではない」ということだけは、誰しもが感じるところではないかと思う(だとすれば特定の主題を伝えていることになるのかもしれないが)。

 

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 一つ、気になったのは「InBetween」という作品である。これには富士山が映っている(もしかしたら富士山ではないかもしれないが、きれいな左右対称の山を見て富士山を連想してしまうのは日本に住んだ経験が長ければ無理のないことだと思う)。映像に富士山を発見した途端、私は映像のすべてを富士山を中心にして考えてしまうようになってしまった。富士山がもつ象徴的なイメージはここで改めて語らずとも自明であろう。宮永はプロパガンダ的に使われた富士山を敢えて用いてその無効化を図ったのだろう。私にはこの映像は、様々なレイヤーを重ねられながらも屹立する富士のように見えた。富士山のもつ数多の文脈の重さを感じざるを得なかった。もし日本人でなければこの映像に何をみるのだろうか、とも考えた。

 

 宮永の作品から何か読み取れるとしても読み取れないとしても、それがはたして映像のもつ時間軸などの構造によるものなのだろうか、という疑問もある。モンタージュとスーパーインポーズはもちろん違う技法をさしており、その効果も違うだろうが、それぞれが映像で用いられた時に実際どう違うのかは、少なくとも宮永作品からはわからなかった。結局はそこに映ったものが何であるかということの方がより大きな影響を及ぼすのではないかとも思えた。

 

 結局のところ宮永の作品は映像がいかに豊饒なメッセージを伝えられるか、というよりも映像でいかにメッセージを伝えないかという試みなのだと思う。その意味で批評的な作品だ。その閉じた可能性をどう発展させ作品にしていくか、という点は私には想像もつかないし、非常に興味深いと思う。

 

 

 

 14時ころから人と会う用事があったので大通方面へ。札幌市資料館のSIAFカフェで休憩。

 

 

 

 3.東方悠平「ガーデニング

  

 地下鉄でサロンコジカへ。同じ建物内にカフェが併設されていて、おしゃれな人が入っていったので続いて入るのに気後れした。東方さんは今回のSIAFの関連企画でも展示しているがそちらの会場は私は見ていない。

 

(参考→東方悠平 個展「ガーデニング」 – GUEST HOUSE & GALLERY PROJECT SAPPORO ARTrip

 

 展示の紹介文は次のようなものだ。「東方は、日用品や鉄、水、マスコットキャラクターなど身の周りに溢れる多様な素材を組み合わせて制作をしてきました。本展ではギャラリー内で人工物と自然物とを等価に扱い、プラスティックの造花やコンクリートなどで構成された庭に水を流し、ガーデニングを行います。都市と自然との間で、イメージが転回していく様は痛快でもあります」。

 

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 セメントで作られた棺、プラスチック製品、ガラス瓶、小石、じょうろ、マネキンの頭、ばらん、フジツボのついた石や発泡スチロールなど様々な素材とともに、生の植物と作り物の植物が混在している。

 

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 「人工物と自然物とを等価に扱い」とはどういうことだろうか。そもそも木や草花を何らかの形で操作し手懐け、一種の支配をすることなしにガーデニングは不可能だろうから、等価に扱った時点ですでに不均衡が生じているはずだ。 

 「都市と自然との間で、イメージが転回していく様」というのもよく意味がわからなかった。

 

 ガーデニング(gardening)は日本語に訳すと造園だろうか。ウィキペディアに興味深い記述があり、造園という語は開拓使が農園を造る意味で用いたという話もある(造園 - Wikipedia)。

 

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 コーヒー豆を運ぶおもちゃの列車。ここは先述の通り、おしゃれなカフェが併設されている。電車の横によく見ると小さい太陽光パネルのようなものがある。

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 セメントに突き刺さったばらんなど。

 

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ガーデニング(オロツコのボール)」という作品。ガブリエル・オロスコの作品「pinched ball」のオマージュ。

 

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「タワーのポストカード」。

 

 私は東方さんの作品は何点かしか見ていないが、いくつか感じたことを書いておきたい。日用品などチープな素材を用いたインスタレーションは、それぞれのモノがもつ存在や意味を際立たせる類のものではなく、もっと全体として混然一体とした印象をうける。そこにはどこか悪ふざけというか悪戯の類に近い親しみやすさがある。しかしよく個別のモチーフを観察していけば、見た目とは裏腹な真面目な意味も透けて見えるような気にさせるのが不思議だ。

 例えばマネキンの頭が鉢代わりにされて草花が植えられているオブジェのように、今回の展示はグロテスクな表現が散見される。それは、そもそもが自然を操作し支配したうえで成立するガーデニングという行為の、その中にあるグロテスクさを増幅させ誇張させ戯画化したようでもある。ここは調和とは程遠く、強制的にアンバランスに合体させられた自然と人工とが提示されている場なのではないか。

 電車でコーヒー豆が運ばれる様などを見ると、先述の造園という言葉の意味も考えあわせれば発展途上国と先進国、植民地主義など世界規模の問題、人類全体の問題を暗示しているようにも見えてしまうのだ。

 個人的に気になったモチーフとして小さい太陽光パネルがある。北海道をはじめとして、地方都市や田舎では、ここ数年で太陽光パネルがずらっと並んだ光景をよく目にするようになった。まさにこれこそが最新の地球規模のガーデニングなのかもしれない。でたらめに見えて真面目な風でもある(でも結局どちらかはわからない)のが東方作品の魅力だといえるかもしれない。

 

 

 

  4.相原信洋作品上映会など

 

 地下鉄で自衛隊前駅までいってマルバ会館というスペースでの「相原信洋作品上映会」に参加した。

 

 

 

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 このスペースではここ一年間くらいで様々なタイプの映像作品の上映を行ってきたことは聞いていたので、やっと来られて念願かなったのだが、今回のイベントが最後らしい。残念である。

 

 

 

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 自衛隊前駅の構内から見えるくらい近い。

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 今回の上映を企画しているのは「EZOFILM」という団体だそうだが、この名前は非常によろしくない。北海道の旧名である蝦夷(地)からとって、「えいぞう」とかけたのだろうと想像する。私が言いたいのはネーミングセンスがどうこうということではなくて、エゾという語は今日では差別語としても使われるということだ。

 そもそも蝦夷は古代ではエゾとは読まずエミシやエビスなどと読み、必ずしも悪い意味ではなかった時期もあったようだが、次第に大和朝廷に従わない勢力を指す語になり、異民族を指す語となり、アイヌを指すようになったということはよく知られている。その変遷をここで詳細に記述することはとても私の手に余るのだが、少なくとも古代から続く東国、東北、北海道で繰り広げられた内戦ともいうべき歴史と、それぞれの時代の為政者の支配における都合と関わりが深い語だということは指摘できる。

 (ウィキぺディアの記述は信憑性は不明だが、この語のもつ歴史と研究の蓄積は見て取れる。→蝦夷 - Wikipedia また児島恭子の「アイヌ民族史の研究」(吉川弘文館、2003年)や、この論文をもとにした「歴史文化ライブラリー273 エミシ・エゾからアイヌへ」(吉川弘文館、2009年)はこの語の変遷について詳しい)。

 それをわざわざ使うのはどういう理由からなのか。ちゃんとした理由があるのならぜひ教えていただきたい。

 おそらくは差別意識なんて微塵もないのだろうが、だからこそ問題は根深い。言葉にはそれぞれ意味があるのだから、それをよく知って使わなければならない。それができなければその言葉を使う権利はないはずだ。それは言葉を使うものの義務だし、エゾという語を北海道で使うのであればなおさらだ。

 このネーミングは北海道の文化水準を著しく落とすものであり、底の浅さ、軽率さを感じさせるに十分である。言葉狩りなどという批判はこれに当たらない。それはエゾ(蝦夷)という語の辿ってきた歴史的経緯を踏まえれば、ここでこの語を使う必然性がないことは明白だからだ。表現に携わるものはこのようなことに関してはもっと敏感であるべきではないのかと思う。

 

 

 

 小言はここまでにして、上映会について。

 一般は2プログラム2000円という高めの料金設定だが、+1ドリンクとあったので、ドリンクがもらえるのかと思いきやこれは要注文の意味らしい。この記述は誤解を招くのでよくない。飲み物の代わりにカレーも注文できたので頼んでみた。これはけっこうおいしかった。豆が入っていた。

 

 

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 会場は普通のお店の土間で、私は二列目に座ったのだが、前の人の椅子が私の座った椅子より高く、頭が邪魔でかなり見づらかったが、なんとか体をよじって見た。

 

 相原信洋は1944年神奈川県生まれ。アニメーターとしての仕事に取組み、1965年頃から自主制作を開始。1980年ころよりアニメーション個展を開催、また1990年ころからワークショップの指導も行う。2011年に急逝。今回は今年の四月に京都のルーメンギャラリーで行われた七回忌追悼映像展の巡回展であり、デジタルリマスター化のプロジェクトのここまでの成果を披露するものでもあるそうだ。

 

 相原作品は今回初めて見た。初期は実写の作品が多く、映像のなかで人が持っているスケッチブックに描かれた絵だけが動くような作品などが印象深い。その後絶え間なくドローイングが動くアニメーションになっていく。

 

 この日は上映会にあたり追悼文を書かれた映像作家の相内啓司さんと、映像作家の櫻井篤史さんのトークもあり、人となりに触れるようなお話があって興味深かった。

 

 

 

 トーク終了後はそそくさと家に帰り、翌日朝はやくの飛行機で北海道を後にした。長い滞在だった。SIAFについては改めて、もう少し考えてみたいと思う。

 

 

 (完)

 

 

札幌国際芸術祭2017(SIAF2017)見聞⑥

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 の続きです。

 

 目次

 1.北海道大学総合博物館の展示

 2.りんご

 3.梅田哲也ライブパフォーマンス

 

 

  

 8月18日③

 

 1.北海道大学総合博物館の展示

 

 

 

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 展示タイトルは「火ノ刺繍ー『石狩シーツ』の先へ」。詩人、吉増剛造の展示である。部屋に入る手前にコンセプト文と「石狩シーツ」関連年表がある。吉増さんにとって北海道は「啓示的なヴィジョンの源」であり「詩人としての危機ともいえる状況からの再生の舞台」であり続けてきたという。また、震災後に吉増が吉本隆明の著作を模写した紙の束「怪物君」を、託された飴屋法水が燃やした映像も上映されている。この行為から「火ノ刺繍」という言葉が生まれたのだという。

 吉増さんが札幌で展示していたことは知っていたが、長年北海道と関係があったことを踏まえると、詩の中の言葉ひとつひとつにも体験に裏打ちされた必然性があるのだなとわかってくる。

 

 天井の低い展示室には、元から博物館にあったものを利用したであろう原稿を展示したケースが並び、いくつかの壁に映像が投影されていた。またドローイングのような紙片などもあった。

 

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 昨年だったか、東京国立近代美術館で個展を行っていたと聞いたときは、なぜ詩人が?と思った。なんともいえない独特な映像やこれまた独特な原稿などを見ると、やっていることからイメージされるのは詩人というよりアーティストの方なのだろうと感じた。

 

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 私は吉増さんの詩を言葉遊び以上のものとして捉えられるだけの知識と詩の鑑賞経験を持ち合わせていない。だが、意外と楽しめた。おそらく今展のメインであろう「石狩シーツ」の朗読映像は40分以上あったにも拘わらず飽きずに見られたし(これに関してはたぶん映像の編集や演出によるところが大きいのだと思う)。手持ちのカメラで撮られた映像作品は不思議に魅力があり、銅板を叩いて文字を打ち出したオブジェは銅版画をやっていた自分としては感覚的に腑に落ちる部分があった。

 

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(映像作品) 

 

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(銅板を用いたオブジェ)

 

 19時頃まで展示を見、地下鉄南北線で中の島駅へ。「りんご」を見に行く。

 

 

 2.りんご

 

 なぜか「りんご」の会場は住所が書いてあるパンフレットと書いていないパンフレットがある。地図もない。会場を秘密にしておいて「○○付近」などと書き、たどり着くまでの道のりも作品のうちだ、とかいうのなら分からないでもないが、これはただの不親切である。

 駅の最寄出口と、出口を出たところに案内板はあった。本当は左に曲がってまっすぐ行くだけだったのだが、どこに対して左なのかがわからずかなり迷った。途中コンビニで訊いたりスーパーで訊いたりしてうんざりした。知らない街で道に迷う経験も旅の楽しみかもしれないが、大して風情もない住宅街の街灯も少ないようなところで迷ったところで不安になるだけである。私は反対方向にかなり歩いていたらしい。本来は徒歩4分のところ、20分以上かかってやっと着いた。

 

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 りんごを貯蔵していたという倉で展示が行われている。ここは18時から21時までしか開場しない。この時は十数人も鑑賞している人がいた。昼間に行われるはずのパフォーマンスを見る予定だった梅田哲也ファンが大挙して?押し寄せたのかもしれない。

 

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 金市館の展示と比べるとあまり音はしておらず、静かなインスタレーションだ。ガラス球を展示するなど共通点も見受けられた。球体を媒介にして金市館とりんごをつなぐ感じだ。もともと地下室の入り口だったのか、床に四角く穴があいていて、下は水で満たされていた。

 

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 見上げると飯盒が。

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 ここで偶然アーティストSさん夫妻に会った。車に同乗させてもらい金市館まで一緒に向かう。

 

 

 

 

  3.梅田哲也ライブパフォーマンス

 

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 21時ころには会場で受付を済ませた。いつの間にかメールが来ていて、当初21時に始まるはずだったのが21時15分開始に変更になっていた。

 

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 (入場証)

 

 前に昼間見た会場とはやはり雰囲気が違う。夜に古いビルに来るようなことはめったにないから、悪いことをしているような、肝試しをしているような、そんな気持ちだった。入場料はパスポート持参で1000円だった。開場までの間の十数分で受付前の狭いスペースはひとでいっぱいになった。最終的には30人くらい集まっていただろうか。

 

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会場に置かれた様々なオブジェの位置はだいたい昼間と同じようだった。もしかしたら数がちょっと増えていたかもしれない。暗さが増しているせいか、光るものの存在感がいっそう感じられた。 入場を開始してからしばらく経って、実際に何かが起き始めたのは21時半頃だったか。いつの間にかパフォーマンスは始まっていた。来場者が集まり始めた会場の片隅へ私も急行した。

 

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 当初行われるはずだったイベント「わからないものたち その2」の会場で流されるはずだったであろう会場説明の音声が、壊れた館内放送のように響く。暗闇で何をしているのか分からず音だけ聴こえてくるような時もたびたびあった。

 

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 演者は一人ではない(芸術祭運営からの案内メールには梅田哲也、高橋幾郎、リチャード・ホーナーとあった)。同時多発的に、また散発的に行われる様々なアクションは、特になんらかのリズムがあるわけではなく、見せ場があるわけでもなさそうだ。常にどこかでなにかが起きていることを感じさせる状態であった。

 

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 ぺこんぺこんと急にへこんで転げるジュースの缶や、密集したシンバル、ぐるんぐるんと回転しながら唸るような音をだすスピーカーなどいろいろなものが使われていた。

 

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 コーラと豚汁を売っていたので、コーラを買って飲んでみた。200円か300円だったか。高い。途中、マイクで梅田さん?から「余りそうなのでぜひ買ってください」というアナウンスもあった。

 

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 しまいには監視のスタッフたちまで奇妙な手遊びを始めた。

 

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 始まりもなければ終わりもないパフォーマンスを、どのように終わらせるかは本当に難しい。本来行われるはずだったイベントでは、バスでパフォーマンスが行われている場所まで行き、またバスで帰るという方法をとるはずだった(これならバスが着く前にパフォーマンスを始めて、バスが出たあと終わればよい)。たぶん、来場者が各自で広い会場の見たい部分を見、聴きたい音を聴くように、来場者のタイミングでパフォーマンスも終わるようにしたかったのではないか。

 この時は、終了予定の22時半を過ぎた22時40分あたりから、まだパフォーマンスが行われている中でスタッフが終わりを告げ、出口へ誘導するという形だった。このやり方は雰囲気を壊されるし、良くなかったと思う。かといって他に良い方法は思いつかないが。

 

 

 このパフォーマンスも含め、梅田さんの作品は聴覚や視覚の、反射的に反応してしまうような部分を刺激されるものだった。生理的な部分で知覚する作品なので、言語化は難しい。記録が不可能に近いようなパフォーマンスだったと思う。

 

 23時すぎに帰宅。

 

 に続く。

 

 

札幌国際芸術祭2017(SIAF2017)見聞⑤


 

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 の続き。
 
 目次

 1.モエレ沼公園ガラスのピラミッドへ

 2.ガラスのピラミッド二階

 3.ガラスのピラミッドその他

 4.モエレ山へ
 

 

 

 
 8月18日②
 

 

 1.モエレ沼公園ガラスのピラミッドへ


 モエレ沼公園での展示は「RE/PLAY/SCAPE」というタイトルだ。

 
 この公園ができるまでに次のような経緯があった。札幌市が提示した作品設置の候補地の中で、ゴミの埋め立て場所だったモエレ沼に特に関心を示したイサム・ノグチは「人間が傷つけた土地をアートで再生する。それは僕の仕事です」と語り、周辺の環境や景観との調和をはかりながら、ダイナミックな地形造成を行うマスタープランを完成させ急逝する。のちにイサム・ノグチ財団の監修のもと完成したここはイサム・ノグチの遺作であるといえる(モエレ沼公園完成のいきさつ→イサム・ノグチ | モエレ沼公園-イサム・ノグチ設計)。

 またSIAF2017においては「はじまりの地」として大友さんが作品を対峙させている。芸術祭全体の意図を考える上で重要だろう。

 
 展示場所であるガラスのピラミッドは、1階は入場無料。2階、3階は有料だがパスポートがあれば入れる。

 

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 1階では大友良英+青山泰知+伊藤隆之による「(with)without records」が展開されている。様々な色や形のレコードプレイヤーがあちこちで様々な音をたてている。市民がワークショップで加工した中古のレコードプレイヤーを作品として配置しプログラミングしたのだという。
 見上げると、黄色い巨大な風船が上の階から頭をもたげるような風に垂れ下がってきている。これは松井紫朗による「climbingtime/fallingtime」という作品。このような大きなオブジェはもっと圧迫感がありそうなものだが、色のせいか、それとも形のせいか、あまり感じない。2、3階ではどうなっているのかを楽しみに、スタッフの方にパスポートを見せ階段を上がる。

 

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 順路がけっこう複雑だ。上の階でも作品が展開されている。

 

 

 

 2.ガラスのピラミッド二階

 

 2階では展示室に入る前に二枚の写真があった。特に解説はなかったが、おそらく埋め立て地だった時の写真と整備されている途中か整備した後のモエレ沼公園の写真であろう。カーテンの向こうには伊藤隆介作品「層序学」と「メカニカル・モンスターズ」、ナムジュンパイク「K-567」があった。

 

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 層序学とは、「地層の層序・分布・岩質・含有化石などを研究して地層を区分し、さらに他地域との対比を行い、地球の歴史、特に時間的な前後関係を明らかにする地質学の一分野」だそうだ(引用:層序学(ソウジョガク)とは - コトバンク)。三角形の部屋の三面の壁にそれぞれ映像が投影されており、部屋の中央には三本、地層を模型にしたらしきものがある。これは会場にあった解説によれば「モエレの地下に眠る、縄文時代ら現代に至るまで蓄積された廃棄物の精巧なミニチュア」である。それを小型カメラがリアルタイムで上下に撮影し、その映像が周囲の壁に投影されているというわけだ。解説には「現実に起きた(ている)ことを虚構の世界を通して提示することで、私たちがいま見ているものとは何か、その固定概念を解体し、自覚させていきます」とあった。これは「Realistic Virtuality (現実的な仮想性)」シリーズに共通する特徴とも言えるだろう。

 

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 同じ部屋の片隅にあるナムジュン・パイク「K-567」は、世界で初めて交通事故に遭ったロボット「K-456」の娘である。この「ガラクタからできているロボット」は、人間の世話を要求する。「人間の役に立つために生まれたはずが、やがては仕事を奪っていく―通常のロボットに対して感じるそこはかとない恐怖を、パイクの人間味あふれるロボットが無効にしていく」のだと解説にはある。

 

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 (「メカニカル・モンスターズ」)

 
 また、部屋の中では「メカニカル・モンスターズ」が動き回っていた。これはルンバ(円形の自動掃除機)の上に擬人化された狸の剥製が乗ったものだ。帽子をかぶってゴルフクラブを持ったり手拭いを被って三味線を持ったりしていて、しかも動くのだから、大変かわいらしい(これほど屈辱的な姿の剥製もないが・・・)。他の来場者の目もかなり引いていたようだ。これはパイクの「K-567」へのオマージュであり、剥製がロボットとして生まれ変わったのだという。解説には「役に立つロボットである自動掃除機と合体してサイボーグ化した狸が、思惑とは別に掃除をする姿」ともある。

 

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 部屋を出たところにも実は続きがあって、モニターを見ているように置かれた狸の剥製がある、モニターに映るアニメはもちろん?フライシャースタジオによるスーパーマンシリーズの「メカニカル・モンスターズ」だ。このアニメに登場するロボットは「天空の城ラピュタ」に登場するロボット兵の元ネタとして有名である。このアニメ作品は美女をさらった強盗ロボットをスーパーマンがやっつけるというものだ。まさに機械に対して人間が持つ恐怖がそのまま表れている。狸はアニメを見て勉強しロボットに化けたのだろうか。

 

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 擬人化された狸を見て思い出すのは高畑勲監督作品「平成狸合戦ぽんぽこ」である。多摩ニュータウンの開発により森を追われた狸たちが「化学(ばけがく)」によって人間に対し様々な抵抗を試みるが、ノリの良さ、サービス精神を出し過ぎてたびたび失敗し、やがて敗れ去る物語である。狸たちは工事で木々が取り払われ土がむき出しになった丘を「のっぺら丘」と呼ぶが、それもつかの間、人間は一瞬にして閑静な住宅街へ変貌させてしまうのだ。この部屋に入る前にみた写真は「のっぺら丘」とどこかで通じていないだろうか。

 一部ではガセだとも言われているが、このようなニュースもあった。

 

終わりの始まり…? 独自言語で話しはじめた人工知能、Facebookが強制終了させる | ギズモード・ジャパン

 

 これが本当かウソかは別にしても、近年では人間がロボットやその延長線上にあるAIに対して抱く恐怖が増しているとは言えそうだ。もはやAIの発達は人間の想定の及ぶところは飛び越しているのかもしれない。 

 伊藤作品「メカニカル・モンスターズ」は、アニメにあるようなごつごつした無機質なロボットではなく、掃除によって人間の仕事を奪う上にかわいらしさまで兼ね備えている。

 そのことを考えるとこれは「サイボーグ化した狸」ではなく、「狸化したロボット」ではないのか。剥製にされ衣装をまとわされたグロテスクな、しかし愛嬌のある狸の剥製を隠れ蓑に進化したロボットの姿ではないのか。もし狸がアニメを見てロボットに化けたのであれば滑稽である。なぜならロボットはいずれスーパーマンによってやっつけられるのがお決まりだからだ。

 アニメの中の勝者であるスーパーマンに重なるのは人間ではない。もはや人間を超え進化したロボット、AIの姿である。

 
 この芸術祭では、モエレ沼はガラクタの再生の場として位置づけられているのだろう。しかし人間にとっての開発が狸にとっての破壊であったことを思い出すと、ゴミを埋めたてた上に公園を作るのが再生なのだろうか、という疑問を抱かずにはいられない。

 「層序学」では地下を掘り返しそこに埋まっている土器や日用品、レコードを私たちに見せつけている。実際にモエレ沼公園に隣接する「さっぽろさとらんど」では縄文時代などの遺跡も発掘されていると聞く(参考:https://www.city.sapporo.jp/kankobunka/maibun/okadamajomon/documents/03_okajouhou1_gaiyouban_p1.pdf)。

 貝塚は古代のゴミ捨て場であったが、現在では昔の暮らしを知る貴重な資料としての価値が見出されている。いったいガラクタとは何なのか?私たちはガラクタをどう活かしていくことができるのだろうか?

   

 

 

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 同じ階には大友良英サウンド・オブ・ミュージック」がある。いかにもガラクタという感じの古びた扇風機や電話やテレビなどなどが積まれていて、時々動き出す。ガラクタが独りでに即興演奏しているかのようだ。 更に上の階へ。

 

 

 

 3.ガラスのピラミッドその他

 

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(「火星からみるための彫刻」)

 

 三階ではイサム・ノグチの写真「火星からみるための彫刻」がまず目にはいる。「地球を彫刻する」というアイディアのプランのうちの一つで、人間が滅びた後、地球上にかつて人間がいたということを示す記念碑として構想されたのだという。モエレ沼公園はこの構想に最も近いとも。

 

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 ARTSAT×SIAFLabによる「宇宙から見える彫刻、宇宙から聞こえる即興演奏」は、世界初の芸術衛星を打ち上げたARTSATとのコラボレーションによる作品で、モエレ沼から様々な情報を記録するための成層圏気球を打ち上げ、そこで取得したデータをもとにした展示物や実機を展示。壁には「モエレ沼公園時空年表」があり、様々な出来事が宇宙空間の距離によってマッピングされている。ここへきて一気に目の覚めるようなスケールの大きな話になった。それはモエレ沼自体がすでに大きな構想をもったものだからこそできることでもある。

  

 順路では階段を上がってガラスのピラミッドの最上階まで上がることができる。ここに来たのは初めて。気持ちのいい夕方の日差しだった。

 

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 最後に一階では「全知性のための彫刻」を展示。イサム・ノグチの作品を受け、「モエレ沼公園を地球外生命体が発見したら」という仮説から電磁波を用いて実際に宇宙とメッセージをやり取りする作品。このメッセージを音や光に置き換えたインスタレーションだった。

 

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 (隠れキャラ)

 

 

  4.モエレ山へ

 

 ガラスのピラミッドを出て、モエレ山へのぼる。

 

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 天気が良く、風が少し強かった。駆け足で汗をかきつつ上る。頂上は平らになっていて座って景色を眺めたり、マットを広げて何か食べたり、みんな思い思いに過ごしていた。ここから札幌を眺めて、かつて円山から札幌を眺め街区の計画を練った島義勇よろしく、SIAFについて考えてみるのも悪くない。近くで誰かが吹いたシャボン玉が風にのってあたりに舞った。「長征」を背景にみるシャボン玉はあまりにロマンチックな夢のような景色だった。

 

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 「長征」をまた斜面を下りながら見た。自転車を斜面に設置している。山裾に等間隔で生えている木もこれらの自転車と同じように誰かによって設置されたものである点で近い存在だなと感じた。

 

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 園内を歩いて西口まで戻り、地下鉄北34条駅へまたバスで戻り、南北線の北12条駅で降り、大学構内を突っ切り、北海道大学総合博物館へ。一階の一室では吉増剛造『火ノ刺繍ー「石狩シーツの先へ」』が開催されている。

 

 ⑥へ続く。

 

「奈良美智 for better or worse 」2017年7月15日~9月24日 豊田市美術館(愛知県豊田市)

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 「奈良美智 for better or worse 」を見た。2017年7月15日から9月24日まで。愛知県へも豊田市美術館へも初めて行った。

 

(公式サイト:http://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/2017/special/narayoshitomo.html

 

(参考、会場写真が載っている記事:奈良美智の“30年の歩みをたどる展覧会”に行ってみませんか? | カーサ ブルータス Casa BRUTUS豊田市美術館で個展を開催! 奈良美智が語る谷口建築の魅力。 | カーサ ブルータス Casa BRUTUS奈良美智が国内5年ぶりの個展『for better or worse』に込めた想いとは!? : ソーシャルアートメディアARTLOGUE

 

目次

豊田市美術館への道のり

②展覧会の内容詳細

③その他

奈良美智展の感想

 

 

 

豊田市美術館への道のり

 豊田市美術館へは名古屋から地下鉄や電車で1時間くらい。名古屋が初めての私にとって、市内の交通網は電車が何種類もあってわかりにくい(東京に比べれば随分マシだが)。毎度のごとくグーグルの地図アプリに頼って行くことに。地下鉄東山線伏見駅で乗り換えて、地下鉄鶴舞線豊田市駅へ。途中、地下鉄が地上に出る。車窓は単調な地方都市といった感じ。朝8時頃の車内は通勤通学の乗客で多少混んでいた。豊田市駅からは15分くらい歩く。美術館に行くまでの間は何ヶ所か看板があるからこの辺りに不案内でも安心だ。

 

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豊田市駅の方から向かうと美術館前の坂にこの看板がある)

 
 私は途中郵便局に寄ったりしたので、美術館の裏手?に出てしまった。復元された城があり、遠くからでも目につく。木々の間を抜けると美術館が現れる。館の建築は谷口吉生による。芝生が敷かれ彫刻作品が設置されている。

 

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 朝9時20分頃に着いた。すでにちらほら人が来て居た。当日券売り場への列は開館までに人が増えて20人くらいにはなっていただろうか。さすが人気がある。事前に券を買った人は別の列に並んでいた。開館前に4、50人は待っていただろう。この日はまあまあの混雑ぶりだったが作品を見るのに不自由するほどではなかった。平日でこれであるから会期終了間近の混雑を想うと恐ろしい。ましてや東京の美術館でやるなどということになれば・・・考えたくもない。

 

②展覧会の内容詳細

 
 全体は、おおむね年代順に作品を並べてあるがところどころで入れ替えてもあった。壁の中での作品の設置位置や作品数もいろいろで、それぞれの部屋の雰囲気や構成にこだわったことが感じられる。数はあまり多くなく、画業の全貌を知るには足りないかもしれないけれど、まさにハイライト的な展示で、粒ぞろい。重要な作品が多く含まれていることは間違いない。

 客層は他の美術展よりは若く、やや女性が多い印象を受けた。

 

  当日券を買い、展示室前で荷物を預け、中へ。展示は一階から始まる。

 
 はじめの部屋に入るとまず右の壁にズラーッと奈良さんの私物のレコードが並び、左の壁には棚や台があって、奈良さんが影響を受けたという本やいかにも奈良さん好みの置物などが並んでいた。曲もかかっている。レコードジャケットは当然ながら歌手の写真や似顔絵がシンプルにあしらわれているものが多く、少女?だけをシンプルにキャンバスに描くことが多い奈良さんの絵のスタイルとも近いと思った。部屋の最後にはごく初期の作品があり、次への橋渡しになっている。

 次の二部屋は奈良さんの代名詞といってもいいあの独特な少女?像の成り立ちを見せるようになっている。個人的には「Sleepless Night(Sitting)」が印象深い。部屋の中央に置かれた真四角の椅子には奈良さんの絵が織られた絨毯が敷いてある。この絨毯はアフガニスタンの職人が作った一点物で奈良さんの私物らしい。

 次は紙のドローイングがたくさん飾られた部屋。仮設の壁は木がむき出しになってるところもあって、手書きで各作品近くの壁にタイトルや制昨年が描かれている。ドローイングと言ってもいろいろでラフなタッチのものもあればタブローにも引けを取らないような「Daydreamer」などの大作もある。

 その次の部屋は三方の壁に絵があり、残り一方に立体の像があった。特にこの部屋の「TwinsⅠ」「TwinsⅡ」は2点が並んでやや高めの位置に展示してあり印象深かった。立体作品「ハートに火をつけて」のタイトルはDoorsの曲名からとっているのかも。Come on baby, light my fire~♪ と曲を思い浮かべながら次の部屋へ進む。

 

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 会場は二階へ続く。二階の初めの薄暗い部屋は群青色っぽく塗られた壁に絵や立体がある。部屋の中央には奈良美智grafによる「Voyage of the Moon(Resting Moon) / Voyage of the Moon」がある。これは巨大な少女?の頭が屋根に載っている小屋で、中にも入れる。私が行ったときはまだ列に数分並べば入れたが、展示を見終えて帰るころ(12時くらい)には整理券を貰う行列ができていた。内部を見たい人は朝早くのほうがスムーズに見られるだろう。壁の高い位置に皿型の作品「Lonly Moon/ Voyage of the Moon」があって部屋の雰囲気とよく合っていた。またこの部屋にあった近作「HOME」や「FROM THE BOMB SHELTER」はシンプルな線描が目立つ作品で、ぼかしがなく他と感じが違ったので気になった。

 

 また階段を昇って三階へ。右の部屋には水が流れる立体作品「Fountain of life」がある。通路の先には明るめの部屋が二室あり、三方の壁に一点ずつゆったりと絵画が並ぶ部屋と壁に立体作品と平面とが一点ずつの一室があって、最後のコーナーへ。

 最後は三つ部屋が連なったような会場になっており、まず正面にある「夜まで待てない」の不敵な笑みにどきっとする。この部屋は絵の具を重ねて微妙なぼかしのニュアンスを多用したタイプの近作が多い。「夜まで〜」のある壁の裏は暗い部屋になっており、近作「Midnight Truth」がライトに照らされた中に浮かび上がっている。

 

 

 

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(館内の様子。壁にあるのはコスースの作品)

 

③その他

 

 常設展は一室のみ二階にあり、ボイスやクリムト中西夏之のコンパクトオブジェなどをまさにコンパクトにおまけ的に展示している。

 物販コーナーは一階。ポストカードやTシャツ、缶バッチ、クラフトテープ、マグカップの他、展覧会チラシと同じ写真が表紙に使われた冊子ドローイングパッドがあった。展覧会カタログと間違えて買う人が居そう。カタログ(2500円)はまだ完成しておらず、予約を受け付けている。10月中旬以降発送予定と聞いた。

 また、高橋節郎館は、展覧会を機に漆芸家である高橋節郎の作品が寄贈されできた施設。これも奈良展の入場料で入館できる。特に「古墳」は遺跡から発掘されたしわしわの漆の欠片を思わせる作品で、人類の文化に思いを馳せることができる。

 

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 (二階の高橋節郎館への道。あたりにはダニエル・ビュレンの作品が設置されている)

 

奈良美智展の感想

 

 今展は奈良さんが愛知県立芸大の大学院を修了した1987年から今年までの30年の歩みを振り返るものだ。奈良さん曰く「遅すぎる卒業制作」であり、作品の同窓会といった趣も感じられる。

 私は奈良さんの作品は東京国立近代美術館で一点、横浜美術館で一点、高橋コレクションで数点のほか、原美術館の奈良さんルーム以外では実物を見たことがなかった。もちろん展覧会チラシや本でいくつも作品は見かけていた。奈良さんは現代美術家としてあまりにも有名で、教科書にも載っているし海外でも相当な人気だと話には聞いていた。しかしその人気の理由となるとあまり聞こえてこなかった。印刷物や数点の絵からも人気の理由は分からなかった。

 

 今回の展示で私は初めて奈良さんの作品を知ったといってもいいくらいで、しかも今までにほとんど経験したことがないほど感動している。本当は世界的に評価されている人のことを書くのは評価に追随するみたいで嫌なんだが、感動しちまったんだから仕方ない。しかしその内実はなかなか言語化しにくい。自分なりに感想を書こうと思うのだが、かつて誰かが書いたようなことしか書けないだろうし、上っ面の言葉を並べるだけになるだろう。それはもちろん奈良さんの作品が上っ面だけの作品なのではなく、見る側の私の問題だ。だが恥を忍んで書いてみる。

 

 奈良さんの作品は多くがこちらを向いた少女?の絵である。この特徴的なモチーフを言葉で描写することはできても、これが何なのかとずばり一言でいうことは難しい。 彼らが少女とされるのは、多くの民族で子供は神に近い存在とされてきたこと、子を産むことのできる女性は特別な力を持つとされてきたことから、一応の説明はできるが、それで説明しきったようには思えない。

 下膨れの顔につり目、鼻は穴だけが描かれ、大抵結ばれている口に唇はない。少女というより生まれて間もない赤ん坊のようにも見える。時にこの少女?たちはかわいらしい羊の着ぐるみなどを着ることもあるが、顔もまた様々な動物に似ている。あるものは猫のようであり、あるものはトカゲのようであり、蛙のようであり、魚のようでもある。だとすれば、つまりこれは人間が人間に至るまでの進化を背負った多義的な顔なのではないだろうか。例えば子供の顔を正面から捉えて描くという点が共通している中澤英明と比べると、中澤さんの方が各作品で明確に子供の個性を描き分けようとしているように見え、逆に奈良さんの作品群の顔が含む幅広いニュアンスが分かるだろう。

 また「Hula Hula Dancing」などで顕著だが、少女の手足が棒のように描かれるのは、単なるデフォルメというより、未発育の状態やいわゆる奇形を表したものと捉えたほうがいいかもしれない。奈良さんの絵にはそういう生々しさもある。

 

 今回の展示を見ただけの感想だが、近年の作品では特に薄塗の絵の具の重なりのせいか一層少女の存在感が増してきているように感じる。少女たちは一見かわいらしく、ある画家を示すアイコンというかキャラのように捉えられがちだが、本当はそんな生易しいものではなく、もっと普遍的な、人間の歴史を飛び越えたようなところと繋がる何かおぞましい存在を描いたものだろう。今回は個人蔵の作品も多く出品されているが、私には奈良さんの絵を居間に掛けて毎日眺めようとはとても思えない。あまり絵に対峙しすぎると具合が悪くなりそうだからだ。そのくらい私にとって生理的に訴えかけるものがあった。奈良さんの絵を見ていると、だんだん内蔵からこみあげてくる何か、それは例えば少女から私に向けられた視線がそのまま体を通って臓腑を鷲掴みにして揺さぶられるような様を、幻視してしまうのだ。

 

 奈良さんがその人気とは裏腹になぜか人気の理由をあまり聞かない(それが語られても説得力をもたないのかもしれない)のは、描かれているものが普遍的で誰にでも何か感じさせるところのあるモチーフであるからこそ、どこかで畏怖の念すら抱かせるようなものに近づいていることが理由だろう。

 神を名指すことができないように、それは語れば語るほど実物から離れるような、遍く存在するような何かであり、かつての私であって未来の誰かのような、どこにでもいるようなどこにも絶対に存在しないような、確かにそこにいるようでありながらはかなく消えそうな、そういう何かだからだろう。

 

 

 

 この日は非常に良い天気で暑かった。帰りは来た側とは逆から美術館を出て、汗だくになって坂を下った。豊田市駅へ戻る途中は見てきたばかりの絵をまた頭の中で反芻していた。ふと、いつまでも続きそうなこの夏もそろそろ終わりか、と思った時に、何か作品が腑に落ちたように感じられた。

 

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 (終)