こたつ島ブログ

書き手 佐藤拓実(美術家)

嗅書

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 本を使った趣味といえば、ほとんどの場合読書のことをさすだろう。しかし、読書以外にも本を使った趣味というものは存在する。
 例えば、本を集めること。署名本や初版本など、レアな書籍を集める人がいる。僕は面白そうな本をとりあえず買って、読まずにため込んでしまう癖があるので、趣味といえば本を読む「読書」ではなく、本を買う「買書」だ。本の収集というのも一つの趣味といえる。
 
 わざわざ古本屋で書き込みのある本を買ってきて、書き込みからいろいろな想像をして楽しむという趣味を持った人もいると聞く。これも読書の一種のように見えるけれど、普通の読書とは違う趣味といえる(しかし、ここで読まれているのは果たして本なのだろうか?)
 
 僕は、趣味というほどでもないが、古本の香りを嗅ぐ時がある。言うなれば「嗅書」だ。
 嗅ぐのは、古本の「匂い」ではなく、「香り」の方がふさわしいと思う。
 嗅覚で感じる対象をいうのに、「臭い」と「匂い」、「香り」というのがある(他に「薫り」というのもあるけれど、これは主に比喩的に使うらしい)。「匂い」でも悪くないのだが、「お香」のように嗅ぐイメージがあるので、そうなるとやはり「香り」でなくてはなるまい。
 本は一般に視覚や触覚によって享受されてきたメディアだろうから、嗅覚とは結びつけにくいかもしれない。しかし、ある古本屋では本の状態説明として、匂いがついていたことを書き添えていた。紙は匂いがつきやすいものなのだろう。
  
もちろん、好みの香りの本もあれば、そうでないものもある。僕が時々無性に嗅ぎたくなるのは、次のような本の香りだ。
 かつて札幌の狸小路にあったラルズというデパートで、年末年始など決まった時期に行われていた古本市があった。そこには台の上の枠に端から端までぎっちりと詰め込まれた一冊百円以下の文庫本コーナーがあった。高校生の僕はよくそのコーナーから本を選び出して買っていた。そこにある、天も地も小口も茶色くなってしまって、カバーの端も少し破れているような、薄い文庫本。大抵は新潮文庫で、内容は武者小路実篤の友情とか川端康成の雪国とか太宰治人間失格だったりする(実家には高校の頃買ったこれらの古本がまだあるはずだ)、そういう本の香りが、私は好きだ。
  
それは、甘い奥深い香りだ。言い換えれば、タバコの空き箱の中のような香り。もちろんタバコと違って火は使わないから、煙臭さはない。少しコーヒーのような香りでもある。
 書いていて気がついた。タバコとコーヒーといえば、子供が思う大人の嗜好品の代表のようではないか。僕にとって古本は少し大人に憧れた背伸びの意識とともにあったのかもしれない。
 
 いずれにしろ、僕が古本を買い集めて読み始めた当初は、単に知識を取り入れる以上に、香りも伴った一つの体験として古本があった。今でも時々古本を開いて香りを嗅ぎ、高校生の頃を思い出したりする。聞くところによると、匂いというのは記憶に残りやすいらしい。最近僕が文字に触れるのはもっぱらスマホの画面だ。それらをスクロールして読むことは、いい悪いではなく根本的にかつての読書経験と違っていると思うし、記憶の残り方も違うのではないだろうか。
スマホをいくら嗅いでも、なんの香りもしないから。
 
(終)
 

吉本ばなな「キッチン」(新潮文庫)

  新潮文庫吉本ばなな著「キッチン」を読む。

   「キッチン」の前編後編と、「ムーンライト,シャドウ」というのが入っている。

 

   初めてちゃんとした恋愛小説というものを読んだ気分。でも、男女の一対一の恋愛関係ばかりについて描いているのではなく、そこがすごく素敵だと思った。

   以前、帯に「女子が一番男子に読んで欲しい小説」とか「これが恋愛小説だ」みたいな文句の書いてある本を読んでみたことがあった。しかし大して面白くなかった。恋愛小説なんてこんなものかと思っていた。

 

  「キッチン」は読み応えがあって良かった。恋愛小説というものがこういう小説を指しているのなら、もっと読んでみたい。

    読んでいてちゃんと感情を揺さぶられた。人を愛おしく思うことについて、すごく伝わってくる。読んでいて疲れるくらい主人公の気持ちの上がり下がりや内実が丁寧に描かれている。

  あんまり具体性のない感想ばかり出てくる。とにかく感情を動かされたことだけ書き残しておきたい。

 

   人間に生まれて、小説を読んで感動できることに感謝したくなった。専門的な本ばかり読まずに、たまにはこういう読書も楽しみたいと思えた。

デジタル一眼レフと名付け

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 最近デジタル一眼レフを買った。買うまでなかなか決心がつかなかった。

 私は古い小さなデジカメをもっているのだが、画質がほとんど変わらないこともあって、普段はもっぱらスマホのカメラを使っている。

 今回、図書館に行って貴重資料を出していただくことになって、携帯のカメラで撮る訳にはいかないなと思った。ずっと欲しいと思ってはいたが、そういうきっかけがあってついに買ってしまった。
 といっても中古で、一眼レフとしては高額ではないと思われる。それでも今まで使っていた小さいデジカメよりは高価だ。久方ぶりの数万円単位の買い物だった。

 私はカメラに関してはずぶの素人なので、どれがいいとかいうことは知らない。ほとんど相場など調べず、中古のカメラ屋さんに行き、「何にも分からないので」と宣言し、以前、借りて使ったデジタル一眼レフの写真を見せて、「こういうのが欲しいんですけど良いのありますか?」と訊いて、主な用途は一応伝え、あとはプロにお任せする形にした。たまたま運よくカメラ本体とレンズがあって、組み合わせてもらった。値段的にも思ったより安い。デジタル一眼レフは人気で、入荷してもすぐ売れるとのことだったので、これ幸いと即決したのだった。店主はやさしい感じの人で、最低限の操作を教えてくれ、おまけでSDカードを付けてくれたりした。名刺を私に渡しながら「何かあったらいつでも電話を」と言ってくれた。ビギナーにはこれ以上心強い言葉はない。

 

 私は注意散漫で、持っているものを落としたり歩いていて電柱にぶつかったりすることの多いたちだ。だから、カメラという精密機械を買う際には一緒に丈夫な入れ物を買うのはもはや義務だ。

 中古カメラ屋にはカメラを入れるカバンはあまりなかったので、店主の勧めに従い、ヨドバシカメラに行った。買った中古カメラがニコンだったからというわけではないが、ニコンのブースに居た店員のおねえさんに声をかけた。

 

 おねえさんはおそらく本当にカメラが好きなのであろう、そして入社して日が浅いのであろう。かなり適当な敬語で友だちに話すみたいだったが、一生懸命にかばんを選んでくれた。「このメーカーは信頼できる」とかいろいろ言いながら、片っぱしからかばんの説明をしてくれた。

 私はカメラにフィットするサイズの小さいカメラケース(カバー?)にすれば良いと思っていたのだが、「絶対付属品が増えるから大きめのを買ったほうがいい」と熱弁された。それは営業トークでもあるだろうが、趣味人の本音でもあるだろうと思い、趣味の世界の先達に敬意を表して、考えていたのより大きめのにした。一緒にカメラにフイットするカバーも買った。

 

 よく「フィギュアは一個買うと増える」というのは聞くが、カメラや付属品もついコレクションしてしまうような類のものなのだろう。

 今までいろいろなモノをコレクションしてきた。でも飽きっぽくもあるので、いくつものコレクションに手をつけてはやめた前科がある。カメラをなかなか買えなかったのは、落として壊すことを恐れたのと、中途半端にコレクションしてしまうことを恐れたからだ。

 私のコレクション癖は、モノに愛着を感じる性分のせいだと思っていた。「物持ちがいい」とたまに他人に言われることがあるのはその証左だと思っていた。

 

 モノに愛着を持つということを行動で表すとすれば、名づけるということを私はイメージする。例えば「四畳半神話大系」では主人公が愛用のママチャリに名前をつけていた。それで私も自転車に名前を付けた覚えはあるのだが、すぐに何という名を付けたのかを忘れてしまう。数多のコレクションの対象に名前を付けた覚えもない。

 

 このたびデジタル一眼レフを買ったけれども、特に名前をつけようとは思わなかった。思いつかない。ヘンな話だが、大切に使うためには名前を付けた方が良いのかもしれないと思っているくらいだ。

 私は特にモノに愛着を感じる性分でも何でもないのかもしれない。私が「物持ちが良い」のは、愛着のせいではなく、たんなる無関心の結果かもしれない。

 

(未完)

五美大展で気がついた いくつかのこと

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 五美大展を初めて見た。

 

 改めて確認すると、多摩美大、武蔵野美大、女子美大、東京造形大、日大芸術学部が参加。国立新美術館で展示される他、各大学の大学美術館等でも卒展は行われる。五美大展は簡易縮小版と言ったところか?絵画や彫刻の展示のみで、デザインや映像、アニメの専攻の展示は無い。
 東京藝大が居ないのはまるで五山制度みたいだ。

 会場は作品数の割には広く感じたかもしれない。学校ごとに展示室の分け方が違っていて面白い。一番ゴミゴミして見えたのは造形大だった。割り当てられている面積が狭いのだろう。だが、手前味噌ながら、造形の作品は面白いもの、ヘンなもの、でかいものが多くてよかった。
 とにかく美大の卒業生が五美大だけで毎年これだけいるというのが驚きだ。

 面白かったのが、絵画や彫刻を専攻しているはずなのに、どこの大学でもモニターが一個か二個は必ずあって、アニメを展示していたこと。どこでもひねくれ者というか、変わった人はいるんだなと思った。もちろん映像作品や作品を記録した映像の展示もあったが、思っていたよりは少なかった。

 絵画が手堅かったのは多摩美だろう。造形も悪くない。女子美武蔵美も何点か記憶に残る作品があった。かといって手堅ければ良いというものでもないが。
 
 多摩の「毛抜き屋」の展示(作者名失念)みたいな、行為の記録の展示が少ないのが意外だった。他に多摩では「笑み」(二反田彩)の張り子の狗が謎。こういうヘンな作品をもっと見たい。
 武蔵美では「ユニコーンの買い物」「台風と犬(トリオ)」(脇田あおい)が不思議な世界観を打ち出していたが、この作家のように複数の作品を見せないと作家の世界観や思想などを深く読み込み考えることは難しいと感じる。その意味でやはり五美大展には無理がある。できれば各大学での広い会場の展示を見たいものだ。他には武蔵美の「今日の為の間」(田中佑佳子)がほとんど唯一、原発問題を扱った作品だったので記憶に残った。美大生はどこの学校でも政治性がなさすぎやしないかと感じる。
 女子美は岩本麻由さんの作品何点かと、丸森初音さんの構築物がおもしろかった。

 多摩美日本画では図録を、女子美日本画ではリーフレットを独自で配っていたのが不思議だった。日本画は別格の存在なのだろうか。他に女子美では日本画以外の卒業修了作品が載ったリーフレットを、日芸では絵画コースの卒業修了制作が載った冊子をもらった。

 もう何年か続けて見ると様々な傾向が分かってきて面白いのだろうと思った。

2016年 冬の札幌の展覧会 森山大道 NORTHERN (札幌宮の森美術館)


 1978年に北海道で撮られたモノクロ写真と、2009年から2010年にかけて撮られたカラー写真の展示。撮影風景のスライドや展覧会のトークショーの記録映像も見られる。
 感想を考えながら見ていたが、うまく言語化できない。わからないなりに感想を書くと、森山大道の写真は、何かを撮ろうとしているはずなのに、何かを撮っていると言いきれない感じがあるなと思った。風景を撮るのでも人物を撮るのでも物を撮るのでもなく、風景と人物を撮るのでもなく、人物と物を撮るのでも無い。レンズの前の光景の全てを撮っているように見えながら、何も撮っていないような感じもする。
 何点かすごく惹かれる作品があって、もはや宮の森美術館といえば森山大道だと私は勝手に思っているが、こうして定期的に森山大道を見に行くのも悪くないかもしれない。

2016年 冬の札幌の展覧会 映像ミュージアム フィオナ・タン ―どこにいても客人として― (北海道立近代美術館 講堂)  

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 毎年開催している映像ミュージアム。以前は文化の日に合わせていたが、移動したようだ。座席は6~7割埋まっている感じ。うーん・・・(もっと人が入ればいいのに)。
 フィオナ・タンはインドネシアの華僑の父とスコットランド系オーストラリア人の母の下に生まれアイデンティティや写真などの記録に関する映像作品を主に発表している。
 上映作品は、世界に散らばった親戚たちへのインタビューを中心にタンの父方のルーツをたどった「興味深い時代を生きますように」と、写真を用いるアーティストなどにインタビューしながらイメージや真実について考察する「影の王国」の二つ。
 
 またこの日は評論家・市原研太郎氏によるレクチャーもあった。
 内容としては、アジアとヨーロッパにルーツをもつタンのアイデンティティは、どちらに属しているとも属していないともいえるもので、作品中でも「プロの外国人」という表現があるように、「どこにいても客人」である。そのようなタンの作品は、アイデンティティのあいまいさを逆手にとってそこからの解放をめざしているように見え、多文化主義でありアイデンティティの確立が難しい今日には有効ではないかと考えられ、また、その曖昧さは、虚構と現実のないまぜになった今日の映像の状況とも関係し、フェミニズムの観点からも新しい女性像を描くものとして解釈できる、という話だった、と私は受け取った。
 短い時間ながら、タンの作品や関連作品も紹介され、たぶん厳密な議論ではなかったとは思うが(この点に関して来場者から批判があった)、タンの作品を考える上での大まかな参考になるレクチャーだったとは思う。
 
 

2016年 冬の札幌の展覧会 札幌美術展 モーション/エモーション ―活性の都市― (札幌芸術の森美術館)

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 1948年から続く「札幌美術展」シリーズ。
 モーションとは物理的な動き(動作)、エモーションとは心の動き(感動)である。活性とは機能や効率が向上したり、反応が活発だったりすることである。この展覧会では生命体のように活動を続ける都市をテーマとし、9名の作家を紹介している。
 
 最初の武田志麻は、山並みや木などを木版画で繰り返し彫り、画面を構成することが特徴的な作家である。一見牧歌的な風景のみに興味がある作家に見えるが、「組曲パリ」(2012)のように大都市も描いている。作品には増殖するものとしての生命体観が共通してあり、この展示にはうってつけの作家と言える。
 
 山川真一は派手な色づかいで立ち並ぶビルを描く。こういうと作品を矮小化するかもしれないが、都市への興味というよりは構成のための題材として都市があるように見える。
 
 楢原武正は「大地/開墾」で抽象的に人間の営みを描く。例えば三角形の構築物ひとつとっても、雄大な山にも見え、バベルの塔にも見え、創造力を刺激させる。この展覧会の都市像の幅を広げていると思えた。
 
 羽山雅愉は港町を題材にしながら、蜃気楼の中の幻のような風景画を描く。それは幻想的な色づかいに加え、独特のフワフワした遠近法やコントラストの使い分けによってもたらされることに気付いた。
 
 千葉有造は無機的なアクリル板を組み合わせることによって有機的な造形物を作る。この流れでみれば、都市の比喩のように見えなくもない。
 
 安藤文雄は、夕張を、産炭地として栄えていたころから衰退するまで撮り続けた写真家。初見だった。
 
 野澤桐子は細密な肖像画の作家。札幌に生きる人々の肖像として紹介されていた。
 
 クスミエリカの作品は、なかなかうまく言い表しにくい独特なデジタルコラージュである。主な題材は動植物と人間である。それらにビルや工場なども組み合わされている。大きな構図としてはまとまりをもって見えるが、細部のモチーフの組み合わせは接合が生々しい。その違和感はシュルレアリスム的な関心によるものだろうが、それだけではないようにも思う。「都市と自然」という言葉を思い出さずにいられない作品だった。
 
 森迫暁夫はシルクスクリーンや陶板でインスタレ―ションを制作。水の循環や植物の成長をモチーフとし、かわいらしい八百万の神「かみちま」をそこかしこに配置して、親しみやすい自然観を示して展覧会を締めくくった。
 
 全体として、様々な都市観が示されているということはいえそうだ。強いて安直にいえば、自然と人間との関係を重要視するようなところが札幌や北海道独自なのかもしれない。